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金木犀


彼とは、夏に出会った。夏が似合う人だった。
私と一緒にいる時、彼は私の二日間をすごく大事に扱うけれど、私と一緒にいない時、彼は私の一カ月を酷く軽く扱う。彼は、夏が似合う人だった。

「会いたかった」

その言葉で始まるのも、これで何度目だろう。ぴったり月に一回の頻度で彼の部屋を訪れるようになって、もうすぐ二度目の秋が来る。
彼に何人、セフレがいるのかはわからない。恋人がいるのかもわからない。結婚してると言われても別に驚かない。ただ、必ず第三週目の、金曜日の夜から土曜日の朝にかけての二日間が、必ず私に充てられるというだけで。

キスをする。私がひと月、待ち焦がれていた感触に、だけど以前ほど心は動かなかった。ああ、慣れてしまったと思った。彼に会うことにじゃない。恐らく、彼に放っておかれることに、私は慣れてしまった。

キスから始まり、性急に服の中に入り込んでくる手。胸を触られて、キスが深くなり、私は濡れて。

いつもと同じ流れだ。何度も何度も通ったこの家への道のりみたいな、駅からずっとまっすぐに続くこの家への道のりみたいな、いつものセックス。干しっぱなしの洗濯もの。代わり映えしない天井。洗いざらしのシーツは、いつもの彼の匂いがして。

ねぇ、今日は、言いたいことがあるの。

この一言を言うために、私は今日ここに来た。なのに、どうしてもその一言が言えない。ねぇ、今日は言いたいことがあるの。どうしても、あなたに伝えなきゃいけないことが。

彼が、ゆっくりと挿入ってきた。圧迫感に息を呑む、のと同時に、言いたかった言葉まで飲み込んでしまう。
いつもこの、束の間の快楽が、小さな小さな問題を先送りにしてきた。ううん本当はとても大きくて、だからこそ向き合えなかっただけなのかもしれないけど、例えば派手なシーンのあるアクション映画じゃなくていい。主人公は、報われなくていい。ハッピーエンドじゃなくていい。ただずっと、終わらないエンドロールを眺めているような、そんな意味のない時間でもいいから、そのとき隣にいるのは、あなたがよくて。

「あのね、離婚したの」

ベッドの中で、背を向けて眠る彼にそう言った。もうすっかり深い眠りについているかと思ったのに、彼は小さく身じろぎをして「そうなんだ」と呟いた。

「うん。だから、もう会わない」
「普通逆じゃない?」
「うん。でも、もう会わない」

こんな、不格好な関係じゃなくて、ちゃんと恋人を探そうと思う。そう、言いたかった気がする。あなたは、私とちゃんと付き合うつもりはないでしょう?そう、聞きたかった気もする。だけど、何も言わなかった。それ以上は言わなかった。何も、言われなかったから。

いつもの通り、一晩中セックスをして、丁寧に愛を囁きながら、彼は私を抱き潰して、まるで箱入りのお姫様のように、丁寧に丁寧に抱き潰して、そうして、いつもの通り土曜日の昼下がりに家を出た。

秋晴れの空は青々としていて、もうすっかり涼しくて、今年もまた、彼と出会った夏が終わるんだと気付いた。

金木犀の香りがする。私を、夏に置き去りにしたまま。




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