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ギムレットには遅すぎる

 行きつけのバー。雰囲気のある店内。気のいいマスター。見知った常連。美味しい酒。
 それだけ全て揃っていれば僕の心は洗われ癒され幸せを感じるはずなのに、ただ一つ、そこに異分子が加わるだけで、いとも簡単に世界が崩れる。
「ねぇ、聞いてる?」
 異分子が隣で声を上げた。元々幼い顔を更に幼くして、全身で『構ってほしい』とアピールしてくるそれが、僕の平穏を壊していく。

「だいたい、彼は私のことなんて好きじゃないんだと思うの」
 そのセリフはもう300回は聞いた。彼氏と上手くいってないとかなんとか、じゃあどう上手くいってないかと聞けば、やれ「好きと言う数が減った」だの、「会社の飲み会に行くことが増えた」だの、半年一緒に生活していてそれしか不平不満が出てこないのも逆に珍しい。
 先日、駅でばったり遭遇して、この店を教えてしまったのが間違っていた。あれからちょくちょく顔を見せるようになった彼女は、学生時代から変わらない幼い顔を携えて、「ねぇ聞いてよ!」と僕の隣に座る。僕は、酒の弱い彼女の全く減らないグラスを見つめながら、うん、うんとその話を聞く。
「上の空になってる時、わかりやすいよね」
「そうかな」
「人の話を聞いていない時のうん、はわかるんだよ。昔からいっつもそう」
 そう言って、彼女はグラスを傾ける。もう随分溶けてしまった氷が揺れて、カランと音がする。
「ごめん。でもさ、そんなに嫌ならもう別れてしまえばいいんじゃないかと思うよ。男からしたらね」
「嫌だよ、私、一人でいるの嫌いだもん。知ってるでしょ?」
 確かに、彼女は昔から、恋人が絶えない人だった。別れたと思えばもう新しい人がいる。だからこそ、常に僕には、
「隙がない」
「……うん?」
「入り込む隙がない。……惚気にしか聞こえない」
 自分でも、トーンが一段下がったと気づいた。少し感情移入しすぎた。気付かないで欲しい。酒のせいにして、気付かないで、そうすれば僕は、一生良き理解者として、ここで、
「……彼氏は、かっこいいよ。あなたは、もっとかっこいい」
 カラン。氷が揺れる。静かな店内では、僕たち二人だけが世界に取り残されたような気分になる。崩れていく。平穏な世界が、この異分子のせいで。

 数日後。しばらく姿を見せない彼女に、僕が徐々に不安になっていた頃、彼女は現れた。いつも通り僕の顔を見て、安堵したような表情で隣に腰かけた彼女の目は、暗い店内の中でもわかるほど、赤かった。
「泣いてた?」
「……そういうの聞いてくるの、デリカシーないと思う」
「どうせべらべら喋るくせに」
 案の定、彼女は全てを話した。『他に好きな人が出来た』と振られたこと、ずっと二股をされていたこと、それでも彼が好きな自分が憎いということも、全部。
 次の恋を探したい、とふてくされたような顔で呟く彼女の横顔が、可愛くて、僕だったらそんな顔させないのにという言葉が喉元まで出かかった。
「……それ、飲まないほうがいいんじゃない?」
 だから、取り繕うように彼女のグラスを指さしたのは、ほんの気まぐれだった。
「アメリカンレモネード? なんで?」
「カクテル言葉って知らない? アメリカンレモネードは、『忘れられない』」
 彼女の、アーモンド状の大きな瞳が瞬きを繰り返す。手元のグラスを見て、そして、
「別のものにする」
 飲みかけのグラスを僕に突き出してきた。そうしてメニューと睨めっこを始めた彼女を、今まで以上に僕のものにしたいと思う。
「じゃあ、ギムレット。飲める?」
 彼女が頷くのを見て、ギムレットを注文した。薄っすらと白い液体が彼女の目の前に置かれる。カクテル言葉は?と聞かれて、「勇気を出して」と答える。
 その日は珍しく、朝方まで飲んだ。すっかり元気になった彼女の軽い足取りを見送りながら、いつか、気付くのだろうかと思う。ギムレットのカクテル言葉は他にもある。『遠い人を想う』、あとは――『長いお別れ』。

 家につき、静かに玄関を閉めたはずなのに、音に敏感な彼女が寝ぼけ眼で起きてきた。
「お帰り、今日は随分飲んでたね」
「うん、最後だったから、ちょっとね」
 寝室に向かう途中、積み上げた段ボールを蹴飛ばしてしまう。来週からの転勤に備え、引っ越しの準備はほとんど整った。そして、入籍の準備も。
「君は、どうして僕を選んだの?」
 問えば、彼女は笑いながら僕の首に手を回す。そのままベッドになだれ込み、キスをする。
「どうしてって、好きだからに決まってるでしょう?」
 くすくす笑いながら、何度も唇を重ねては、彼女は僕の体内にギムレットを注いでいく。彼女が笑うたび、ライムの香りが鼻腔をついて溺れそうだ。ああ、多分。
 僕は多分、遅すぎた。少しだけ。


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