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世界征服


 世界を征服しようと思ってるの。
 初めて会った時、彼女はそう言って笑った。その笑顔が、まるで陶器で出来ているみたいな肌が、ずっと、僕の心に吸い付いて、いつまで経っても離れてくれない。

 カーテンの隙間から漏れた明かりが、昨夜の情事を映し出していた。生まれたままの姿でベッドに横たわる彼女の長い四肢に、シーツが絡みついて、一番『見たい』部分を見せてはくれない。
「美緒、おはよう」
 彼女の体を跨ぎながら声をかける。吐息のような、鼻に抜ける音を漏らして美緒が体を揺らす。美緒が目を開ける。緩慢な動作で仰向けになる。その目が僕を映す。僕を映した目が、緩やかにしなる。
「おはよ」
 多分、僕らが出会ったのは運命だと思った。そのくらい、彼女のその表情一つが仕草一つが僕の感情を湧きたてて乱してはすぐさま凪に戻していく。
 彼女の唇を塞いだ。彼女は朝、僕がそういう行為を求めることが嫌いだった。「歯くらい磨かせてほしい」いつもそう言いながら恥ずかしそうに顔を逸らすから、無理やりにこっちを向かせたくなるんだ。
だから、あの日も。

 その日は、確か大学の同期と飲み会だった。昔好きだった女性がいた。彼女は離婚したばかりで、それが余計に彼女の魅力を引き出しているような、妙な色気を纏っていた。
 美緒とは、喧嘩をした。世界を征服するために、仕事を続けて、遠く海外に旅立っていった彼女とは時差もあり上手くコミュニケーションが取れていなかった。寂しい、その一言を、美緒は決して口にはしなかった。僕は、彼女のそういう強いところが好きで、眩しくて、嫌いだった。
 一瞬の気の迷いだ。そう思いながら、昔好きだった女性を抱いた。美緒とはどうせ遠く離れてしまって、物理的な距離と共に心まで離れてしまって、僕がどこで何をしていようが彼女はどうせ知りっこない。興味がない。彼女は、世界を征服することにしか興味がない。
 とっくに、僕を征服したくせして。

 結局、昔好きだった女性とはその後も関係が続いた。美緒との最後はあっけなく訪れた。数年にわたり築き上げてきたものなんて、そんなのまやかしに過ぎなくて、ずれていった二人の人生が交わることは二度となかった。
「あなたは、もっと自分を大事にしたほうがいいと思う」
 そう言って、微笑んで、弓なりにしなった彼女の目が、揺れた。陶器の肌を、濡らした。
 触れることは許されなかった。いやもしかしたら彼女は許したのかもしれないけれど、僕自身がそれを許さなかった。散々傷つけたいと跡を残した彼女の肌が、遠くて、カーテンが揺れて、朝の光が、

「――くん」
 名前を呼ばれて、ハッとした。振り返ると、昨夜の情事の跡を残したベッドの上に、知らない女が横たわっていた。名前は何だっけ。こうして会うのは3回目になるのに、僕は未だに、彼女の名前すら覚えられない。
「どうしたの? 怖い顔してた」
「……いや、別に」
 取り繕う気もなく取り繕った。ベッドに近づいて、寝そべった彼女に跨り、キスをする。彼女は朝一番のキスも拒まない。拒んでほしい。恥ずかしそうに、目を伏せて、その長いまつげが、頬に影を作るその瞬間を、見せて、
「セックスしよ」
 言うと、彼女の瞳が弓なりにしなる。美緒ほど綺麗なアーチは描かない。カーテンから漏れる日の光だけは、あの頃と何も変わらない。
 あれから数年、僕はまだ、誰かの中に美緒を見ている。


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