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まるでタンポポの綿毛のような②

 スマホを睨み続けて、恐らくもう一時間近く経つ。短い文章を打っては消し、打っては消し。そんなことを繰り返している私は、一体何がしたいのか、自分にだってよくわからない。
 ケンイチさんのIDを検索して、フレンド登録した。だから相手にも、もう私の連絡先はわかっているはずだし、私が連絡を取ってもいいと思っていることだって伝わっているはず。
 昨夜はありがとうございましたとか、楽しかったですとか、ご迷惑をおかけしましたとか、当たり障りのないことだけ送って、あとは相手の出方を待てばいいのだけれど、そんなことをしてもケンイチさんには無意味な気がした。きっとあの人は他人に興味がない。それゆえに広く門戸を構えているだけで、きっと一人の人間に固執はしないし、去るものは追わず来るものは拒まず、人当たりの良さとコミュニケーション能力だけで生き抜いてきた人だ。どちらかと言えば明るいタイプに見えるけど、きっと逆。すごく、陰鬱とした人だ。
「セックスをしませんか」
 そう文字を打って、しばらくそれを眺めてみた。彼は私の望む知らない人ではもうないし、きっと私はまた初心なフリをして理性で歯止めをかけて、ぱっとしない思いを抱えながら夫の待つ家に帰ってくることになるのに、彼のあの骨ばった指が、人を見透かしたような笑顔が忘れられない。
 見透かされていいから、見透かされてあげるから、その代わり、私にも見透かせてほしい。
「茉由、さっきから何してるの?」
 夫の声がして、私は思わずスマホを取り落とした。その拍子に、作成していた文章をケンイチさんに送信してしまう。「セックスをしませんか」が今、電子の海を渡ってケンイチさんの元に届いてしまった。
 やらかしたな、と思うも、送ってしまったものは仕方がない。何事もなかったかのように夫に向き直り、「昨日ほら、美幸と会ったって言ったでしょ? なんかね、旦那さんが浮気してるかもって悩んでて……」とペラペラ言葉を重ねる。
 夫への罪悪感は、もうとうに失ってしまっていた。彼のことは愛しているし、結婚したことは後悔していない。けれど、結婚して二年、その前の同棲期間が三年、出会ってからで言えばもう八年。それだけの時間を共にしていると、彼に対して抱くのはときめきではなく居心地の良さで、情熱ではなく安心感で、時折ふと恋しくなるのだ。まだ恋人同士で、お互いをただ求めあっていたあの頃の自分たちが。
 結婚は墓場だ、だなんて言った人はきっと、運命の人と出会えてなかっただけだと私は思う。私にとって夫は運命の人で、これ以上ないほどぴったりくる相手で、それはきっと夫にとっても同じで、だから私たちは一緒になった。なのに。ここまで思っているのに、それでも他の男を求めたくなる瞬間があるなんて、私はきっとわがままで欲張りで、足元の幸せを幸せと思えないタイプだ。足元に咲いているタンポポなんかには見向きもしないで、手入れをされた花壇の中のバラが欲しい欲しいと、駄々をこねているだけの子供だ。
 ブーッとスマホが震えて、ケンイチさんからの返信が届いた。夫が目線で私を促すから、私は画面が夫に見えないように気を遣いながら、その内容を確認する。
「しましょう」
 端的な、たったそれだけの文章だった。ああ私はまた、バラのトゲで怪我をする。そう、思った。

 例えば会う約束をする時に、日時や場所をスムーズに決められない人は私は苦手だ。LINEという文面上で親しくなろうと思ってくれているのは嬉しいけれど、まるで対面しているかのように雑談をされても感情移入ができない。だから、ケンイチさんが「来週の水曜日なら空いてるんですけど」と持ち掛けてくれた時は、ああやっぱりこの人とは気が合うな、と思った。
「六時まで仕事なので、七時でどうですか」
「場所は先日と同じ新宿だと有難いです」
 端的な、用件だけの文面。そこには恋愛感情も性欲もなくて、だからこそ、酷く高ぶる。文字が官能的にくねって、踊り出す気がする。文字で愛撫をされているかのような、焦らされているかのような、不思議な感情を抱く。
 その不思議な気持ちは当日まで続いて、その日は朝から家事も何も手につかなくて、約束の一時間前には新宿に着いてしまい意味もなく街をぶらぶらしたりした。
「店つきました。先に入ってますね」
 そんな彼からのLINEを見て、私も店に急ぐ。時刻は十九時五分前。時間通りに行動する彼の気真面目さでさえも、今は私を高ぶらせる要因になる。
 彼に指定されていたお店はこじんまりとした品のいい居酒屋で、決して広い店内じゃないのに、彼を見つけるのに時間がかかった。私服ではなくスーツだからか、全くの別人に見えた。「茉由さん、こっち」と手を振られなければ、私はいつまでも彼を探して彷徨っていただろう。
「何飲みます? とりあえずビールですか?」
 頷きつつ、なんで日本ではとりあえずビールという言葉がこんなにも主流なんだろうと考えたりする。彼の顔を上手く見れなくて、注文を迷っているふりをして、ずっとメニューを見続けたりする。
「そんなに緊張しないでくださいよ」
 ふっと笑った声がして、私はますます顔を上げられなくなった。ビールで乾杯して、ジョッキを傾けるケンイチさんを横目で眺める。こんな顔だったっけ。大きくて二重のまぶたも、すっと通った鼻筋も、笑うと見える八重歯も、前回会った時はなんとも思わなかったのに、今はとてつもなく愛おしいものに見える。
 何を話したのかは、正直あまり覚えていない。ただ私は彼の話に耳を傾けることに必死で、上手い相槌を打つことに必死で、飲み物も食べ物も全然進まなかった。沈黙が流れればそれを埋めるように私が話し出し、いやこんな話つまらないだろうと突然黙り込み、ケンイチさんからしてみれば、酷く情緒が不安定な女に見えただろう。
「会計お願いします」
 最後に彼がそう言った、その言葉だけがやけに耳に残る。この後私たちは素知らぬふりをして、新宿のホテル街へ消えていく。まるで一組のカップルのようなふりをして、お互いの素性も知らないまま、ホテルへ。
「このへんのホテルはどこも変わらないので、どこでもいいんですけど」
 ふと斜め前を歩く彼が足を止め、私はハッとした。彼の大きな背中にぶつかりそうになり、慌てて立ち止まる。私より軽く二十センチは高いだろう彼の顔は私の視界には入らなくて、彼が今どんな表情をしているのかがわからなくて、それを見るのも怖くて、俯いたまま「そうですね」とよくわからない相槌を打つ。
 結論から言えば、彼とのセックスは気持ちよかった。緊張でなかなかベッドに近寄れない私を手招いたのを皮切りに、彼はずっと私をリードしてくれて、愛撫してくれて、実際は気持ちよくて声を上げているのかAVの真似をして声を上げているのかもわからなかったけれど、私は声を上げ続けた。彼はそんな私の反応に興奮してくれて、そして、私の中で果ててくれた。「いっぱい出た」と照れたように言う彼のそれは夫のものより少なくて、これでいっぱいなのかと首を傾げていたら相槌を打つタイミングを見失って、私はただぼうっと彼がゴムを処理するのを眺めていた。
 このバラには、トゲがなかった。本当は私を滅茶苦茶に刺してボロボロにして布切れみたいに捨ててほしかったのに、全然トゲが見当たらない。ただただ、感じたことのない快感だけが私を支配して、罪悪感だけが募っていく。
 裸のまま寝転がって、腕枕までしてくれたケンイチさんは、私の頭を撫でながら、何を話すでもなく心地よさそうに天井を眺めていて、私も彼にならって何を言うでもなく天井を眺めた。この天井は、当たり前だけど我が家の天井とは違う。どこか距離が遠い。ああそうか、私はどうも、随分遠くまで来てしまったらしい。

 それからの私は絶好調で絶不調だった。ケンイチさんとのセックスを思い出せば夫とのそれも大変盛り上がり夫も喜ぶし私も痛くないしで絶好調、ただやっぱりあの時みたいな快感は得られなくて欲求不満ばかりが募って絶不調。まるでジェットコースターだ。私は徐々に、右肩上がりの人生を望んでいたのに。
「今日はありがとう、またね」
「こちらこそありがとう、また」
 そんな簡素な文章で途絶えたっきりのLINEを見返しては、私はケンイチさんを思って心を震わせる。まるで夫に恋をしてた頃のようだ。仕事にも家事にもお洒落にも気合いが入るのに、結局彼のことばかり思ってはかどらない。まるで私がまだ少女だった頃のようだ。
 私から、連絡してもいいものだろうか。もう一度会いたいと連絡してもいいものだろうか。来るものを拒まないはずの彼ならきっと受け入れてくれるだろうけど、何度も私から誘うのも気が引ける。だけど、私が人妻だと知っている彼は、恐らく私から声をかけなければ誘ってくることもないのだろう。
 彼の指と視線を思い出せば、穴の空いたそこは疼くのだけれど、日が経つにつれてそれはどんどん薄れて、どんどんどんどん、あの日の天井のように遠ざかっていく。このまま手が届かないところまで遠ざかってしまったら、多分もう二度と、彼には会えない気がした。
「セックスをしませんか」
 あの日と同じ文章を打っては、送信せずにただ眺めていた。私はもっと深い快感を知れるだろうか。そうすれば、夫との行為をもっと楽しめるようになるのだろうか。夫のことを好きだと胸を弾ませることができるだろうか。足元のタンポポが綺麗だと、心から思えるようになるのだろうか。
 勇気を出して送信してみた。返事はすぐに来た。
「来週の金曜日はどうですか」
 その日から、私は指折り数えて、その日が来るのを待っていた。

まるでタンポポの綿毛のような③【最終話】 へ続く


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