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20年ちょっとの人生を振り返ってみる

 ある人に触発されて、自分の人生を振り返ってみようと唐突に思いました。

 20年ちょっとしか生きてないくせに何を生意気な、と思われるかもしれません。でも歳の割には波瀾万丈(?)だったなと思います。

 何も考えず4時間くらいぶっ通しで書いたので、まとまりのない読みづらい文章になってしまいました。

 それでも、これで今の私のありのままの感情だと思うので、一度このまま上げてみます。

(2022年1月20日追記 あまりにも読みづらい部分があったので少し書き直したり追加したりしました)

はじめに

 東京生まれ東京育ち。
 幼稚園から大学まですべて私立。
 世帯年収は1300万。
 企業役員の父と、パートタイムの母、2個下の妹。
 お金に困ったことも、食べ物に困ったこともない。

 私は恵まれていると思う。
 物質的には本当に恵まれている。

 でも、今までの人生幸せだったかというと、わからない。

 贅沢だ、と自分でも思うけれど、「幸せだった」と簡単にいうには傷が多すぎる。

 ずっとずっと、私は何かに飢えている気がする。

幼少期

 最初の記憶は、「妹のお世話をするから、1人でお風呂に入ってね」と母に言われたことだ。多分、寂しかったのだと思う。

 でも両親や祖父母、叔父叔母、曽祖父母にたくさん可愛がってもらったし、妹のことは大好きだった。

 だから普通に幸せな幼少期だったのだと思う。

 怖がりで、慎重で、泣き虫で、でもなぜか人見知りはしない、ごく普通の子供だった。

小中学校

 中学校以前の記憶はほとんど残っていない。割と暗黒時代だ。

親友事件

 最初の傷、そして一番深い傷になってしまった出来事がある。それがいつのことだったかははっきりとは覚えていない。多分小学6年生のときだと思う。

 「親友」が突然担任の先生に「私きおちゃんにいじめられています」と言いつけた。もちろん私はいじめと言われるようなことは何もしていない。今ならその子は単に注目を集めたかったのだとわかる。その頃の私は全く気づいていなかったけれど、少し虚言癖のある子だった。きっと自分の親や先生に構って欲しかったのだろう。

 当時の私には衝撃だった。急に職員室の奥の部屋に呼び出されて、担任の先生が厳しい目で私を見つめていて、「親友」が泣きながらソファに座っていて、その横にはクラスメイトがいた。

 「いじめられている」と言いつけたのは、「親友」だけではなかった。当時私と仲が悪かったクラスメイトもだった。そして、「親友」とそのクラスメイトは帰り道が同じで仲が良かった。だからきっとそういうことだ。「親友」は私ではなく、そのクラスメイトを選んだのだ。

 「私は選ばれなかった」「私は選ばれない」という感情はその後何度も味わって、私の内面に深く根差している。

 「親友」とはずっと仲が良く、当時流行っていた交換ノートなんかもしていた。小学5年生のときに「親友」が先生に提出する日記に私宛の手紙を書いたのを、先生がコピーして渡してくれた。その中で私のことを「親友」と呼んでくれていた。すごくすごく嬉しかった。

 当時、私が「親友」の他に仲良くしていたのは、静かで、大人しく、一見落ち着いている真面目な子供だが、自分の意見を言えない、持つことすらできないような子たちだった。だから、気が強くて意地悪で、周りの子に敬遠されていたクラスメイトに「つきまとわれて」いた。

 だから助けて欲しいと私は相談された。その時の私は偏った「正義感」が強く、善悪の区別もまだついてなくて、馬鹿で馬鹿でどうしようもなかったから、あっさりと了解してしまった。
 頼られたのが嬉しかった。そして馬鹿正直に友達を「守ろう」と、そのクラスメイトに嫌がらせのようなことをしてしまった。

 だから、そのクラスメイトが「私はきおちゃんにいじめられている」というのは、(私もかなり嫌がらせをされたからお互い様だろという気持ちはたっぷりあるが)完全には否定できない。彼女には本当にひどいことをしてしまったと思うし、あの頃の自分を私は強く恥じている。

 だが、「親友」は別だ。私は本当に何もしていない。「親友」にとっては、友情よりも自分が注目を得ることが重要だったわけだ。

 私が「守った」はずの友人たちは、何もしてくれなかった。2人だけ「先生にきおちゃんは何もしていないと言ったよ」と言ってくれた子がいたが、本当かどうかはわからない。他の子たちは知らんぷりをするだけ。

 厳しい顔で私を見つめる先生の顔がこわくてこわくて、私はほとんど何も言えなかった。だから、本当にいじめたのだと思われていたのかもしれない。それ以来どう思われているのかが怖くて、卒業後も母校にはほとんど顔を出していない。

 「親友」は、「親友」の母が私を裁判で訴えると言っていると私に言ってきた。それを聞いた私の母は怒り狂って、もし万が一そんなことがあったら戦うと私に言ってくれた。それは「裁判」という言葉に驚いてしまっていた子供の私にはとても心強くて嬉しい言葉だった。

 でも、私が「親友」のことを考えて夜遅くに泣いているときに、面倒臭そうな顔で「忘れて他の子と仲良くしたらいいじゃない」と言ってきたことも一緒に覚えてしまっているから台無しだ。(母はなんでもよく顔に出るので、このようなことは星の数ほどある。)「裁判」という言葉に怒ったのも、単にプライドの問題だったのかもしれない。

 この事件は私にとって本当に大きな挫折だった。「親友」に裏切られたこと。友達が守ってくれなかったこと。先生が自分を信じてくれなかったこと。親が親身になってくれなかったこと。そして自分が正しいと思ってやったことが、実は人間としてやってはいけない酷い行いだったこと。  

 詳細はもうほとんど忘れてしまっても衝撃は消えなくて、たくさんの消えない傷を私に残した。私が人間を信頼できなくなった最初のきっかけになった。「親友」は裏切る。「親友」という呼び方が怖くなったのもこれが理由だ。

 いざというときは誰も守ってくれない。誰も信じちゃいけない。

友達、その他

 その後も友達だと思っていた人が実は裏で悪口を言っていた、なんてことはもう何回経験したかわからない。トイレで実際に聞いてしまったこともある。
 「友達は裏切るもの」という考えが、私の中に完全にこびりついて「事実」になってしまった。
そしてそれは今も変わらない。

 私の代はなぜだか気の強い人が多かったのか、家庭環境に問題がある人が多かったのか、ひどく荒れていた。「一軍」たちがスクールカーストを決め、私たちは最下層の「地味グループ」に勝手にされていた。「地味グループ」のくせに気が強く目立っていた私は、格好の標的にされた。

容姿いじり

 特に、容姿いじりが本当に酷かった。毎日のようにブスと言われた。鼻が大きい、眉が濃い、顔が大きい、足が短い、凹凸がない、胴長、色黒、土気色、貧乳、まな板、ドラム缶…………頭の天辺からつま先まで毎日毎日あげつらわれて、私は自分の容姿が大嫌いになった。今でこそかなりコンプレックスは薄れたが、それは呪いのように消えてくれない。特に胸については非常に大きな地雷なので、皆様どうかお手を触れないよう。

 少し失敗するだけでしつこくからかわれた。仲のいい男子ともしつこく、本当にしつこく、数年間冷やかされ続けた。

 ブスな自分の顔を見るのが嫌で鏡は見られなかったし、いつも失敗しないよう気を張っていた。人目を異常に気にするようになったのはこの辺りから。私が手で顔を隠して笑うのはこの頃からの癖だ。

 今でこそ、嫉妬されていたのだとわかる。私を引きずり下ろしたくて、上に立ちたくて仕方がなかったのだろう。でも、当時の私は言われたことをすべて真に受けてしまっていた。誰も「そんなことないよ」なんて言ってくれなかった。

 辛くて家で泣いたこともあったが、親には「相手にしなければいいじゃない」「あなたが悪い」と言われるか、放って置かれるかのどちらかで、親身に相談に乗ってくれた記憶はない。記憶がないだけかも、とちょっと期待して振り返ってみたが、高校生になってからも「あなたが悪いでしょ」と言われるだけだったから、実際にないのだろう。残念だ。

 小中の様々な出来事は、深い深い傷になって、いまだに私のことを苦しめている。
 自己肯定感の低さも、人間不信も、振り返ってみれば根っこは小中の経験にあるのだと思う。

高校

高校受験

 高校受験をかなり頑張った(頑張らされたとも言う)私は、それなりに良い高校に入った。

 志望校は親が決めた選択肢の中から選んだ。塾の先生と親の言いなりだった。だから全くやる気はなかったが、なんだかんだ毎日13時間勉強させられたのもあり、ずっと塾の一番上のクラスにいた。模試で良い成績を取ると褒められるのが嬉しかった。親の期待通りに受かれば、認めてもらえると思っていた。

 なのにほとんど落ちた。親は何十万も(そこに私の意志はなかったとはいえ)費やしてくれたのに、本当に申し訳なかった。第二志望に落ちた時、「ここは受かると思ったのに」と親が呟いたのが聞こえて傷ついた。でもそれ以上に失望させた自分が許せなかった。今も学歴に少しコンプレックスがある。

 不思議なことに、何とか引っかかった滑り止めは、唯一私が「ここ好きかも」と説明会で興味を引かれた学校だった。ご縁だったのかもしれない。

努力

 母校からその高校に行くのは私1人。人間関係はリセットされた。

 高校に入って最初に驚いたのは、「誰も悪口を面と向かって言ってこないこと」だった。大袈裟でなく、本当に。中学まではいきなり「ブス!」と言われるのが当たり前だったから。

 小中で「学んだ」私は、変わろうと決めた。皆に好かれる人になろうと決めた。だから死ぬほど努力した。

 まず、容姿へのコンプレックスをどうにかしようとした。ホンモノの美人になれないのなら雰囲気だけでも美人になろうと思って、姿勢、歩き方、話し方、言葉遣い、所作、礼儀作法、すべて自分で勉強した。

 一人称も「あたし」や「うち」から「わたし」に変えた。今でも敬語や言葉遣いには少し自信があるので、この努力は無駄でないと思っている。

 努力のおかげなのか、高校以来「お嬢様」と呼ばれることが多くなった(実際はお嬢様ではない)。

 人懐っこく常に笑顔で。リアクションはオーバーに。面白くなくても笑うこと。笑う顔はブスだから口元を手で隠して。顔を背けたり突っ伏したりすればツボっているように見える。

 そんなことを気をつけていたら、自分が本当に面白くて笑っているのか、周りに合わせた愛想笑いなのか、全くわからなくなってしまった。ちなみに今でもわからない。今ではすっかり笑い上戸だが、もともとそうだったわけではない。作り物の笑い上戸だ。

 高校時代は普通に楽しかったし、友達も多かった。卒業アルバムには数十人からのメッセージが書いてある。でも、私は誰にも心を開かなかった。仮面を被っていた。

 クラスメイトや先生や親に気に入られるように振る舞っていたら、全く違う性格になった。素顔なんてものはなくなった。それでいいのだと思っていた。自分は変わったのだと思っていた。でも、自分で自分をねじ曲げてしまったことに、本当の自分を殺してしまったことに私は苦しんだ。

 見た目の代わりに中身を磨こうと、勉強も頑張った。最終的には大学への推薦順位は5位だった。3年生ではずっとクラス1位、学年でもかなり上位にいたから、頑張ったと思う(理系や体育はボロボロだったのに、文系科目だけでカバーしたのだから本当にすごいと思う……)。親に褒められたくて仕方なかった。

「自分は馬鹿だからもっと頭を良くしないと」と、自分の頭で考える癖を自分でつけた。今「頭の回転が速い」と褒めてもらえるが、それは元からではないし、実際は遅い方だと思う。「意見をちゃんと持っている」のも、「主張ができる」のも、「自信がある(ように見える)」のも、全部全部自分が死ぬほど努力して手に入れたものだ。

 皆褒めてくれるから、自信も少しついた。私を羨ましがるだけで何も努力しようとしない人たちを見下すようになった。でも、私が自信を持てていたのは「努力して作った自分」だけだった。このことにもずっと苦しんだ。

 それまで内向的だったのに、急に外交的になった。茶道部部長、文芸部編集長、図書委員、文化祭実行委員、謝恩会実行委員副委員長、文化祭のクラスの出し物の企画。とにかく働いた。

 高校ではなく、NPO法人が運営するユースセンターでも様々な活動に関わった。1人でアメリカにホームステイにも行った。だって親や先生に褒められたかったから。

友達

 いくら人に好かれようとしても、やっぱり私を嫌ってくる人はいた。いろいろな意味で目立つからもう仕方ないと今では諦めているが、当時は苦しかった。「友達だと思っていたけど実は違ったシリーズ」は高校でもかなりの数あった。「裏切られた」と思ったが、実は最初から友達だと思われていなかったのだと思う。

 たくさん辛いことはあったが、特に覚えているのは高校2年生の文化祭の時期。遅くまで準備をしていたら、クラスメイト2人が通りがかった。仲が悪いわけでもなかったから「お疲れ様」と挨拶したら、きれいに無視された。すれ違った後、くすくすと嫌な笑い声が聞こえた。何がクラスメイトたちの癇に障ったのかわからなくて、全然準備を手伝わないクラスメイトたちになぜ笑われたのかわからなくて、自分はずっと頑張っているのに誰も認めてくれなくて、糸が切れてしまった私は友達の前で号泣した。ちなみに未だになぜ無視されたのかはわかっていないしわかりたくもない。

挫折ーキャリア講座

 高校2年生のとき、希望者のみの「キャリア講座」というものに参加した。社会人のファシリテーターがつき、グループで社会問題を解決するアイディアについて話し合い、具体的なモデルを作り、最終的には全校生徒の前で発表する、というかなり面白いものだった。私の班は全員がリーダーをできるような、優秀で主体的な、悪く言えば非常に我の強い人間の集まったグループだった。ジャンケンの結果私がリーダーをすることになった。

 一人一人が優秀なものだから、リーダーが引っ張る必要は全くなくて、酷い劣等感を味わった。もがいてもがいて自分の役割を探したが、全く上手くいかなかった。議論に置いてかれてチームメイトに「きおちゃんは頭の回転が遅いから」と言われたこともある。私もイライラを人にぶつけて最低な態度をとってしまったこともある。とにかく辛かった。自分のいる意味なんてないと思った。でも頑張った自分は偉い。

 キャリア講座の最後に自分が書いた振り返りを読むと、心が痛くなる。とにかく自分は馬鹿で頭が悪くて能力が低くて役立たずでリーダーの資格がないと心から思い込んでいて、それでも諦めず馬鹿なりにあがいて頑張ろうとしている。読み返す度に心が痛い。

 それでも色々な意味で私の原点になったから、良い機会だったと思う。

 親との関係にも、かなり疑問を持つようになっていた。「なんかうちの親おかしくない?」と思うようになり始めたのは、ユースセンターのスタッフさんたちと、世界史の先生のおかげだ。「親がしぼった選択肢から、子供は選ぶ」という当たり前だった親のスタンスも、おかしいとやっと気づいた。

 致命傷になったのは、進路での対立だ。

 高校生の私は、教師になりたいと思い始めた。中学とは違って生徒思いで個性的な高校の先生たち、親身になってくれるユースセンターのスタッフさんたち、自然と教育に興味を持ち始めた。

 高校2年生になって進路の話が出始めた。手始めに高校の先生たちがどうして先生になったのか、という話を聞く会が行われた。今まで聞いたことがなかった先生たちの熱い思いに触れて、興奮したのを覚えている。

 まだ純粋さを残していた馬鹿な私は、興奮したまま家に帰り、目を輝かせて「私教師になりたい!」と親に言った。「いいね」と言ってくれると信じ切って疑わなかった。だから、不機嫌に返されて心底びっくりした。驚きすぎてあまり記憶が残っていないが、ショックを受けた言葉たちはむしろ記憶から消えて欲しいのに忘れられない。

 教師は世界が狭い。毎日同じことを教えるつまらない仕事だ。誰にでもできる。未来がない。そんなものにならなくていい。

 教師になりたいという私の気持ちを応援してくれたユースセンターのスタッフさんたちのことも「教師のなりそこない」と馬鹿にされた。ユースセンターに行っていることも否定された。

 極め付けには「教師になるなら東大に行け。塾費用は出さない」と言われた。今考えると普通に意味わからないしめちゃくちゃだ。でも、当時の私にとっては親の意志がすべてだったから諦めるしかなかった。泣くしかない私を見た親に「諦められるくらいの軽い気持ちだろ」と言われてもっと泣いた。

 布団の中で泣きながら、「親に従う」ということが当たり前になって反抗する気力を奪われていることに初めて気づいた。親に反抗するという選択肢が、私には全くなくなっていた。異常だと思った。

先生

 高校3年生はひたすら世界史の先生につきまとっていた。大好きだった。好きすぎてその先生のテストはすべてぶっちぎりで学年一位だった。非常に気持ち悪い。

 きっと家でも学校でも満たされていないことを見抜かれていたのだと思う。たくさんの刺激をもらったし、一番の居場所だった。私のことを認めてくれて、親が選ぶ人生ではなく、自分らしく生きろと背中を押してくれた。本当に好きだったし尊敬していた。自分の理解者だと思っていた。

 一度は諦めた教師も、先生に刺激されてもう一度頑張ってみようかと思った。馬鹿正直な私はそれを親に言った。やっぱり否定された。心の底から面倒くさそうに「まだそんなこと言ってたの?」と言われた。そのあと言われた言葉は一生忘れられない。「先生に褒められていい気になっちゃったんでしょ」と言われた。私の意志も、夢も、すべてを否定する本当に酷い言葉だと思う。

 それですっかり心が折れた私は、無理やり自分を納得させて教師を諦めた。「自分の意志で教師になるのやめました!」と世界史の先生に話すと、先生も褒めてくれた。

 でも、卒業式後の謝恩会のとき、ひどく傷ついた。

 母と先生に挨拶に行ったとき、母が「先生に憧れたみたいで、教師になりたいなんて言っていたんですよ」と笑いながら話した。それだけでも嫌だった。親と進路で揉めたことは先生も知っていたから、何か言ってくれるのではないかと思った。先生は「それは諦めさせましたから」と言った。ショックだった。先生は、ずっと私が自分で選ぶことを応援してくれているのだと思っていた。私は自分の意志で教師を目指すことをやめたと思っていたけれども、実は先生は諦めさせようとしていたのか。操られていたのか。本当は諦めるのは痛かったのに、でも自分で選んだのだからと思っていたのに、私は自分で選んでいなかったのか。先生は私の理解者ではいなかったのか。結局親のいいなりなのか。

 「先生」という存在も、私は信頼できなくなってしまった。友達も家族も先生も信頼できない。完全に心を閉ざしてしまった。

 親に言われて特に傷ついた言葉の一つは、「うちは子育て失敗したから」だ。何の脈絡もなく笑いながら言われた。驚いてしまってその時は何も言えなかった。しばらく経って「傷ついた」と言ったら「あなたが言うこと聞かないから」と返された。

 全部言う事聞いてたら認めてくれたのかな。愛してくれたのかな。

 恋愛についても、自分を好きでいてくれたはずの人が実は彼女が欲しかっただけなことに気づいたり、「重い」と陰で言われたり、すぐに飽きられたりとそれなりに傷つくことはあったが、長くなるので割愛する。

痴漢

 もう一つ大きな傷になっていることがある。痴漢だ。それも一度や二度ではない。数え切れないほど、日常的に遭っていた。

 自分は意図していないのに勝手に性的対象として見られ、欲を押し付けられ、触られるのが本当に怖かった。周りは気づいているはずなのに、何もしてくれないのが怖かった(何度か助けてもらったこともある)。声をあげようと思っても冤罪だろうと思ったら怖かった。体が動かなくなってしまうのが怖かった。一度声をあげられなかったら待ち伏せされて怖かった。普通に見える大人が息を荒らげながら触ったり押し付けたりしてくるのが怖くて仕方なかった。

 今も満員電車は怖い。人混みも怖い。男性も怖い。一定の距離をとってしまうし、パートナー以外に触られるのは苦手だ。男性だからといって疑ってしまう自分も嫌い。でも、どうしようもない。今も電車や人混みでは時々過呼吸を起こしそうになる。

 そして今でも、時々痴漢に遭う。だんだん感覚が麻痺してきた。

 定期試験期間中の朝、やっぱり痴漢にあった。その日は乗客の方が痴漢を捕まえようとしてくれた。結局逃げられてしまったけれど、でも嬉しかった。別の方が、私を駅員室まで連れて行ってくれた。そこで母に連絡をしたら、わざわざ来てくれた。大事にされているようで嬉しかった。

 駅員さんに被害届を出すか聞かれた。もしかしたら犯人が捕まるかもしれない。少しでも痴漢を減らせるかもしれない。そう思って出したいですと言った。母が「えっなんで?」と言った。その声が不機嫌そうに、面倒くさそうに聞こえて悲しくなったのを覚えている。声色は、私の考えすぎなのかもしれないが、「なんで?」と聞かれてしまったことが、理解されないことが、何より「理由を言えば理解してもらえるかも」という期待を全く持てない自分が悲しかった。

 こんな小さな小さな寂しさや悲しさや不信感が、ずっとずっと積み重なって、少しずつおかしくなったのだと思う。

大学

 大学でのことは最近すぎて(まだ大学生なので)あまり振り返れていない。

 大学1年は高校時代と同じような感じだった。誰にも心を開かず、常に笑顔の仮面を被っていた。
 「友達だと思っていたけど実は違ったシリーズ」は大学でも何度かあった。そもそも誰も信じていないから傷は浅いが、それでも虚しくなった。

サークル

 サークルでは演劇に魅了された。自分ではないキャラクターを作り上げて、それに成る。楽しくて楽しくて仕方なかった。それはもう努力したし誰よりも練習した。

 でもやっぱり私には人を笑わせる才能も、光るものもなくて、苦しんだ。フィードバックでは「きおはできているから」と言われてしまうのでひたすら自分で振り返る。いつも真面目にやらない人が少しやると褒められるのに、私は「できているのが当たり前」だから認めてもらえない。練習後の円陣では存在を忘れられる。演劇公演の来場者アンケートでは、ヒロインなのに誰にも言及されない。

 楽しかったけれど、苦しかった。

 誰にも見てもらえない。誰にも認めてもらえない。

 私なんていらないのかも。

1、2年

 大学1年生の前期は、勉強もそこそこ頑張っていた。GPAは3.5くらいは取っていたし、成績表には最高評価のAとBしか並んでいなかった。

 でも、親には認めてもらえなかった。Bが多いと言われた。「きおも大学では周りに敵わなかったか」と言われた。

 それで、心が折れてしまったのだと思う。

 後期から、次第に大学に行けなくなっていった。2年生でオンラインになってから、ほぼ授業には出なかった。出られなかった。自分でもどうしてかわからない。

 出席しない、課題も出さない、だから単位はほぼ落とした。1学期で約22単位中、たった8単位しか取れなかったこともある。(そのうち4単位分は、見かねた友達がレポートを書いてくれた)

 サークルでは、演劇をする部署の幹部をやった。これも楽しかったが苦しかった。

 頑張れば頑張るほど周りから浮いていくような気がした。私が無理をするのが当たり前になっていた。周りとのモチベーションの差でぶつかった。他の幹部と反りが合わずぶつかった。たくさん陰口を叩かれた。「友達だと思っていたけど実は違ったシリーズ」はここでもあった。皆「無理しないでね」と声をかけてくれるのに、声をかけるだけで手を貸してはくれなかった。どんなに追い詰められても誰にも「助けて」と言えなかった。

 サークルでの諸々は、まだ整理し切れていないのであまり書けない。

 楽しかった。でも苦しかった。逃げたかった。

 アルバイトでも色々なことがあり、「自分は仕事ができない」と思い込んでしまった。

 親との関係はもう最悪だった。ちょっとしたことで傷つけられることが、理解してもらえると期待して、傷ついて諦めることが、もう限界だった。

 何かの時に、「もう一度先生になりたいと言われたら、許すつもりだった」と親に言われた。ちょうど教職課程を取る最後のチャンスが2週間前に終わったところだった。あれだけ苦しんで苦しんで諦めたのに、そんな簡単に言われてしまうのか。どうしようもなくて夜の公園で泣いた。

 「ありのままの自分」が完全にわからなくなっていた。自分が嬉しいのか、悲しいのか、感情が鈍っていた。

 常に「ありのままの自分」ではないから、周りにいる人は皆「偽物の自分」のことが好きなだけだと思っていた。

3年ー暗黒時代

  3年は今までで一番の暗黒時代だ。記憶がほとんどない。

 暗い暗いトンネルをずっと1人で歩いている気分だった。

 先は見えない。将来が漠然と不安だった。

 それまでも死にたいと思ったことは数え切れないほどあったが、この時期はもう常にだった。

 というか、生きていたくなかった。

 生きててよかったと思ったことなんて一度もない。

 辛い思いをして生きている意味あるのかな、と思っていた。

 何回手を自分の首にかけたかわからない。

 スマホであれこれ調べては、「今すぐ相談する」と表示される電話番号を睨んでいた。

 病院で処方された薬もちゃんと毎日飲めないものだからどんどん溜まっていって、それをいつか一気に飲んで終わらせるために、机の引き出しにしまっていた。

 「いつでも終わらせられる」「それなら今でなくてもいい」そう思うことで自分を止めていた。
 この考えは今も消えない。今でも頻繁に「生きるの疲れたな」「もうやめたいな」「ここまで辛い思いして生きる必要あるのかな」と思う。

 私にとって死はとても身近なものだ。常に私に寄り添っている。冷たい無慈悲なものではなくて、私の最後の逃げ道。私が唯一自由にできるのは自分の命だけ。生きるか死ぬか、それだけは親の許可なしに選べる。もはや憧れに近いと思う。

 親への恨みつらみを書いた遺書を残して死んでやろうと何度も思った。社会的に殺してやろうと、いっそ道連れにしてやろうと思った。

 猫がいなかったら、今私は生きていなかった。
 うちに猫が来てくれたから、今も私は生きている。

 どんなに生きていたくなくても、あの瞳と目があってしまったら死ねない。無責任に残していけない。純粋に自分を慕ってくれて、甘えてくれる。裏表がなくて、裏切らない。全身全霊で愛してくれる。

 猫の存在そのものに私は救われた。

 今はトンネルはほとんど抜けている。

 あの頃の自分がどうやって生きていたのかは本当にわからない。

 よく、生きていてくれたと思う。

 2021年の大晦日にそう思った。

4年-1人暮らしを勝ち取る

 今年の初めにコロナになった。かなり気を付けていたが、アルバイト先の塾で生徒からもらったらしい。

 コロナにかかったこと自体は別に怖くなかった。親に何と言われるかが、心底怖かった。怯えた。陽性と出た時、恐怖で泣いた。

 母は表向き優しかった。父は帰ってきて知るなり、仕事に支障が出ると怒っていた。私の容態なんて、一言も聞かなかった。私がトイレに行くために部屋を出ようとしたら、妹に悲鳴をあげられた。限界だった。

 自分で調べた療養施設に電話して、そこで一週間過ごした。プライバシーはなかったし、猫に会えなくて寂しかったが、壁越しに悪口が聞こえることも急に怒られることもなくて快適だった。

 それで家を出ようと決意した。

 たくさんたくさん戦って、たくさんたくさん傷ついた。

 少しは理解してくれようとしていると思っていた母に「あなたは昔から人より神経質だから傷つく」「思い込みが強い」と言われたとき、もう期待するのをやめようと心に誓いました。

暗黒時代を経て

  戦って戦って一人暮らしをついに勝ち取ってからはかなり落ち着いた。

 暗黒時代を乗り越えたおかげで私はかなり強くなった。自信も身についたと思う。メンタルも安定した。

 ようやく自分の家が居場所になった。怯えながら帰ることも、ビクビクしながらお風呂に入ることもなくなった。

親友

 もちろん自分の努力もあるが、大きかったのは親友の存在だ。

 ずっと私に取って「親友」という言葉はタブーだった。「親友」は裏切るもの、虚しいものだと思っていた。そんな私に親友ができた。

 といっても最近出会ったわけではなく、高校1年からの友人だ。ずっと仲は良かったが、大学生になって初めて様々なことをありのまま話すようになり、ある時自分が誰のことも信じられないことを話した。

 自分が信頼されていなかったことが親友には相当ショックだったようで、今もちょくちょく詰られるが仕方ない。それでも、親友は離れていかなかったし、たくさん「好き」を言葉にしてくれた。たくさん褒めて認めてくれた。「この人は多少のことでは離れていかない」と初めて思えた。家族にさえそんなこと思えないのに。

 親友には心から感謝している。いつも正面からまっすぐぶつかってきてくれる。だめなところはだめと叱ってくれる。そして私のことを信頼してくれる。大切な人だ。

心の友(笑)

 もう1人、親友に近しい人がいるが、その人を親友と呼ぶと例の親友が妬くので心の友と呼んでいる。彼女は大学からの友達で、サークル活動を一緒に頑張った(一緒に戦った?)友人だ。

 本当に心優しい人で、まだまだ私への気遣いや遠慮を感じるが、それでも最近少しずつ頼ってくれるようになって嬉しい。様々なことをお互いに相談できるし、絶対にひかないでいてくれるので安心できる。親友とともに私の心の支えになってくれている(というと親友は絶対に嫉妬する)。

出会い

 自分を受け入れてくれる人たちとの素敵な出会いもあった。温かくて幸せで涙が出そうになった。

 優しい人は、きっと沢山傷ついてきた人。だから私も支えられるようになりたい。

別れ

 まだまだ傷つくことはたくさんある。

 ようやく信頼できる人ができたと思ったら、その人は他の人を選んで離れていった。付き合っていた人に「恋愛感情を持てなかった」と言われて振られた。長年の友達だった人にフォローを外された。
もう前ほど傷つくことはないが、「ああまた選ばれなかったんだな」と冷たく納得した。

信じる

 「人を信頼できない」ということが悩みだった。誰も信じることができない。どうせ皆離れていく。人を当たり前に心から信じることができる人が羨ましかった。
 でも、別に信じられなくていいんじゃないかと気づいた。「信じられるか/信じられないか」ではなくて、「信じたいと思った人を信じ抜く」という覚悟を持つのが大事だと思った。

ご縁

 人への執着が薄れてきた。今道が交わっている人と今後ずっと交わり続けることは難しい。一度道が分たれた人ともいつかまた交わるかもしれない。

 すべてはご縁。縁を繋ごうとする努力は大切だけど、どうにもならない部分もある。嘆いたってしがみついたって仕方がない。

 "all's right with the world"

 ブラウニングの詩の一節。私の好きな言葉だ。赤毛のアンの最後でも引用されている。
 日本語では「すべて世はこともなし」と訳される。

 "絶対に変わらないのは、不変なものは何もないという事実だけよ。だから、何にも、誰にも頼ることはできない。頼れるのは自分自身だけ。これがつらい思いをして私が学んだことよ"

 これはジャクリーン・ケネディの言葉。こちらも心に残っている。

 誰を失おうと、何を失おうと、私には私がいる。だから大丈夫。そう思えるようになった。

自信

 少しずつ自信も身について、芯ができてきた。「努力して手に入れたもの」だけでなく、「元々の自分が持っていたもの」もかなり時間をかけて見つめ直して取り戻せた。

 今も才能に溢れた人を見ると眩しくて消えたくなる。羨ましくて仕方がない。

 でも、ダイヤモンドが好きな人もいれば、真珠が好きな人もいるし、宝石ではない鉱物に魅了される人もいる。全員がギラギラ輝く必要はない。真珠のような控えめで他にはない輝きも、黒曜石の妖しげな艶も、皆綺麗だ。

 そう思えるようになったから、あまり人を気にしなくなった。

まとめ

挫折を経験して

 これまでもちろん楽しいことも嬉しいことも幸せなこともたくさんあったけれども、たくさんの傷を受けてたくさんのことを失って、諦めてきた。

 それでも何度も立ち上がって諦めずに生きてきた自分のことを誇りに思う。

 挫折を経験したことがない、という人が周りにもたくさんいる。正直羨ましいとも思うけど、たくさん挫折して傷を受けたからこそ私は自分で立ち上がれるし、打たれ強くなった。何より人の痛みに寄り添おうと思えるようになった。

 傷つきやすいことは欠点だと思っていたけれど、傷から学んで、その分人に優しくできるのなら完全に悪いものでもない気がする。繊細さを捨ててしまったら、優しさも捨ててしまうのではないか。

 またまた引用。まずは渡辺和子さんの言葉。

"傷つきたいなどとは夢にも思わない。でも私は、傷つきやすい自分を大切にして生きている。何をいわれても、されても傷つかない自分になったら、もう人間としておしまいのような気がしているからだ。大切なのは、傷つかないことではなくて、傷ついた自分をいかに癒し、その傷から何を学ぶかではないだろうか。"

 そして茨木のり子さんの詩の一節。

"自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ"

 傷つきやすい自分を自分で守っていけるように強くなりたい。

  なんだかんだ今も教育に関わり続けているのは、夢があるからだ。夢というか、切望というか、執着に近いのかもしれない。

 私は過去の自分を救いたい。親に、先生に、友達に認められたかった私を抱きしめたい。

 辛かった経験を生かして誰かのために生きられたら、それで過去の私は救われると思うのだ。

 そしていつかはずっと欲しかった「家族」を自分で作りたい。ありのままを認めて、意志を尊重して、たくさんハグして、たくさん大好きといってあげたい。

 誰かを心から愛して抱きしめた時、私は心の奥の自分が抱きしめられているように感じる。

 ずっとずっと誰かに認めて欲しくて、褒められたくて、認められたくて、受け入れられたくて、愛されたかった。作った自分ではなくて、そのままの等身大の自分を抱きしめて欲しかった。

 血の繋がりや立場や形に囚われず、本当の意味で愛し合える人と一緒にいたい。

今一緒にいてくれる皆さんへ

 かなりの長文になってしまいました。果たして最後まで読んでくださった猛者はいるのでしょうか、いないような気がしていますがもし万が一、億が一にもいらっしゃいましたら何かコメントしてくださると嬉しいです。

 読んでくださりありがとうございます。

 不器用な人間ですが、これからも一緒にいてくださると嬉しいです。

 最後に大好きなマリリン・モンローの言葉を。

"人はいつだって何かを失っているのよ。それでも私たちは生き続けなければならない、そうでしょう?"

 結局、人は死ぬまでは生きなければならないようです。

 自分の中の「死」を排除せず、一緒に生きていこうと思います。

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