見出し画像

dlitさん江:とりあえず1年間だけは書き続けてみようと思っています

言語学のほうで、オンライン・オフラインともに長年お世話になっているdlitさん(田川拓海さん。以下、ハンドルネームのdlitさんで呼び方を統一します)が、先日「週刊はてなブログ」にご寄稿なさったとのこと。さっそくリンク先の記事、興味深く拝見しました。

アウトプットをしようとしているみなさんも、リンク先の記事をぜひ。おすすめです。

以下、リンク先の記事の内容について個人的に思うところをいくつか。

自分の書いたものがコーパスの一部になる(かも)という発想は今まで持っていなかったっすわ

いくつか上記リンク先の記事ではっとさせられたことがありました。その一つが、dlitさんがブログを「webに文章を置いておくという感覚でやっています」とおっしゃっていること。

なるほど。たしかに。言われてみれば。

たとえばある人がサーチエンジンで検索をかけて、自分の文章がヒットする可能性はゼロじゃないんですもんね。その意味では、ウェブ上に文章を残しておくということは、コーパスの構築に間接的に貢献できる可能性はあるということはあるのか。

そんなこと、今まで全然考えもしませんでした。言語学徒のはしくれだというのに。なんなら、ちょっと恥ずかしい気さえしてきましたわな。

私は今回、とにかく思い立っただけ。
長崎の片隅にじっとして黙っているのもなんだから、日常のペースメーカーとして何か毎日書いていってみようかなという軽い気持ちで、今回はnoteというプラットフォームでのブログ執筆を始めた次第でした。

私にとって今回運が良かったのは、5年間のトルコでの生活、およびそこから持って帰ってきた・連れて帰ってきた自分の周りの「テュルク的あれこれ」が題材としてたくさんあったということでしょうか。

テュルク語学やテュルク世界の紹介みたいなことにもつながるかもしれないし、あわよくば仕事にもつながるかもしれない。そんな動機でブログ執筆をnoteにて再開して、現在に至るという流れです。

昔やっていたブログは、何かの折に全部消してしまっていましたよね。
端的に言って、続けられなかったんです。今思えばもったいなかったのかもしれませんが、途中で書き続ける気力をなくしてしまっていた。

そう考えると、今回みたいにわーっと書けるときに書こうとしている自分よりも、たしかに定期的な更新をする必要はないんだ、とわりきって、同じプラットフォームで長年続けようとするdlitさんの考え方のほうが、たしかによほど(本人含め)人を幸せにするようには思えます。

なもので、私も今でこそnoteにおだてられて「毎日note!毎日note!」などと息巻いていますが、とりあえずは、365日連続投稿だけ目標にしておこうかなと思います。1年限定。

そこから先は、dlitさんにならって、不定期に投稿する形でいいから、文章だけはウェブ上に残すということをやってみようかなと。改めてそう思いました。

なるほど、「あえて書かないこと」もたしかに重要っすわ

あともう1点。「書かないことも尊重される社会であってほしい」というのは、個人的にハッとさせられる一節です。

たしかに我々は、なにかとアウトプットを求められるし、人によっては期待されもするのだろうと思うのですが、逆に下手なことを書いて読む人を混乱させないためにも、あえて書かないということも重要だよね、と。

専門分野については、たしかに慎重にならざるを得ないという部分があるのはよくわかります。私もトルコ語について何か書くときは、できるだけ慎重にならないとなと思いますから。もちろんそれでも、間違いを指摘されたりということはあるのですが、それはありがたく受け取っています。

間違うのは仕方ないんですよね。大事なのはそのあとの行動というか。

それでも、アウトプットのメリットはやはり享受したいっすね

一方で、たとえば私のような立場の人間は、ここnoteを含めたブログ的媒体というプラットフォームがせっかくあるのなら、間接的にではあってもやはり何かを書き続けたほうがまちがいなくいいことがあるんだよな、という実感も経験もあります。

実は、なにをかくそう私もdlitさんとの出会いはある意味、ウェブ上に書く事によっておこりました。ツイッターでも書いたのですが、最初にdlitさんのことを知ったのは、はてなブログだったかそれともSNSだったか。

専門分野内部の話とはいえ、辛辣な文章を書く人がいるな〜、というのがdlitさんへの最初の印象でした。もっとも実際は今思い返せばそこまで辛辣でもなかったようにも思いますが(言語学の業界、辛辣な人多いからね!)。

その後ツイッターで、「おお…この人があのdlitさんか…」と言っているうちに、奇しくも実際にお目にかかる機会がありました。

そこからなんやかんや(ほんとうになんやかんや)会う機会などあって、ノリで(たぶん)日本言語学会のワークショップの口頭発表にお声かけしてもらったり、東京に寄った時に「マイナー言語理論友の会」と称する食事会に誘っていただいたりなどして、現在も(対面こそ厳しいが)交流が続いています(dlitさんがどう認識しているかはわかりません。ご本人に聞いてみないと!)。

そういえば、先日「トルコのクーデタ未遂の日、私は何をしていたか」という話をしましたが、東京にいたその頃、事件が起こった翌日の夜、まさに東京でdlitさんたちと食事をして、安否を気遣ってもらっていたようです。過去ツイートのアーカイブ、偉大なり。

アウトプットは、人によっては不可避の行動であるのだよなと。同時に、それをし続けることの恩恵も、間違いなくありますよね。はてブつながりだとkillhiguchiさんあたりも、日本語の話などとにかくディープで専門的な内容の記事を書いてらしたので、勉強になるなあと思って一読者としてよく読んでいました。

自分もアウトプットしていたら、そういう人たちと交流する機会がいつのまにか持てたという恩恵はあります(そういう意味では、将棋のプロの方達、または関係者の方達との交流もまさしくそうなんですよね)。

ということで

なにが「ということで」なのかわからないくらいつらつらと書き連ねてしまいましたが(毎回こうだが)。

dlitさんの記事へのリアクションとしては、「とりあえず私は1年間だけ、ちゃんとはしていないが定期的に更新するブログをやってみます」みたいなことで続けていこうかなと決意を新たにした、ということでしょうか。

同時に、dlitさんのご指摘の部分をもう少し意識してやってみようと思いました。一つ、ウェブ上に文章が残ることの意義を意識すること。もう一つ、書くことの恩恵をかみしめようということ。

dlitさんには、今後ともよろしくお願いいたしますということで。また「友の会」(テュルクじゃないほうね)、東京でやりたいですね…。Covid-19の終息の日を待ち遠しく思うばかりです。ホントに。マジで。後生だから。

記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。Çox təşəkkür edirəm! よろしければ、ぜひサポートお願いいたします!いただいたぶんは、記事更新、また取材・調査のための活動資金に充てさせていただきます。