結局はものにならなくても、いろいろな言語に手を出しておいて損はしないのではないか説
共通の知り合いが何名かいるし、どうやら近い業界にいるらしいけど一度もあったことがなく、その割にはこちらがやたらネタにさせてもらっているnooyoshさんという愛すべきおじさんがいらっしゃいます。
そのnooyoshさんが、こんなツイートをしていらしたので、今日はこのツイートをこすっていこうと思います。
nooyoshさんはこういったペーソスのあるツイートをウリにしていらして、私もひそかにファンであることをここに正直に書きつつ、しかしながらトルコ語にかかわる人間のはしくれとしては真面目に答えておきたいなと思ったのも事実でございまして…
これは本当にそう考えています。
なんせ語学書もマーケットの原理から逃れられない。1冊でも多く売れるにこしたことはない、ということはあるのです。
私自身、出版社の方と直接お話をする機会がこれまでに何度かありましたが、その時にはっきりと言われたことがあるのです。「なんせ売らないといけないので」と。
英語以外の言語の本を出版するって、そういうリスクがやはりついてまわるのですよね。現状、何万部も売れるということはそうそう期待できない。とはいえ、全く売れないのでは会社としてあってはならないわけです。結果によっては今後の出版企画にすら影響があるかもしれないわけで。
その意味では、たとえnooyoshさんをはじめ、私たちがとりあえず語学書を買ってみて、結果「モノにならなかった」としても、語学がたしかに生き残っていくためのきっかけのひとかけらにはなった可能性が高い。上記のツイートにはそのような意味を込めたつもりでした。
そう、私もいろんな言語の語学書や関連書を意識して買うようにしています。それには、もちろんあわよくばモノにしてやろうという野心が6割か7割かは占めるわけですが、残り何割かには書き手を応援しようという気持ちも入っているように思います。(後付けで言っている説はまあないでもないが)
たとえば自分の本、「トルコ(語)にはこれまで興味がなかったですが、読んでみて面白そうな国(言語)だと思いました」と言ってもらえることがある。社交辞令と重々承知ではあっても、やはりうれしいものです。
よっしゃ見といてくれ、今後またもっとええもん出したりますさかいに、というモチベーションが上がるということは、間違いなくあるように思うのです。
さてたくさんの語学書に目を通すことの意義って、そういったマーケット的な意味のほかに、ないでしょうか?
私はあると思う。英語含め、母語以外の言語についての情報がゼロか1以上か。この差はかなり大きいと思うのです。
おそらくこの恩恵は、有形の利益か、あるいは無形かと言われたら無形のほうなのだろうと想像します。でも、きっと何も知らないよりはちょっとでも知っているほうがいい。
あいさつ一言だけだっていいじゃないですか。その言語のあいさつ一言だけでも知っていることが、あとでいつか役に立つかもしれない。
というわけで、結論は以下の通りです。
めげる必要などない。前進あるのみです。Ölmek var, dönmek yok.
Ölmek var, dönmek yok.
【ことわざ】「死ぬことはあっても、戻ることはない」→
行くところまで行く、の意。トルコ語のことわざの一つです。
そうさオレたち、行くところまで行ってやろうぜ。
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