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街並みに残るアゼルバイジャン語キリル文字

今日もアゼルバイジャン語の話を一つ。アゼルバイジャン語の現在のアルファベットについて、以前noteに書いた(描いた?)ことがありました。

ラテン文字(ローマ字)を使用するのが現在のアゼルバイジャン語。では、かつてのキリル文字の面影は全く残っていないのか?

…というテーマについて今日は触れてみたいと思います。

文字に歴史あり

2002年から完全にラテン文字表記に移行したアゼルバイジャン語ですが、では現在のアゼルバイジャンからキリル文字が完全に消えたかというと、そんなことはありません。

かつてのキリル文字が用いられていた頃(1940年-1991年の旧ソ連時代、さらにキリル文字とラテン文字を事実上併用していた時期の1991年-2001年)の名残が、わずかではありますが今のアゼルバイジャンにもあります。

キリル文字とは、ロシア語などで使われる文字体系を指します。詳細については、Wikipediaのページなどをご覧ください。

またそれ以前には、1920年代後半からおよそ10年ほど、今とは少し異なる体系のラテン文字が使われていた時代もあります。

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一見何の変哲もないように見えるこの雑誌の表紙、明らかに旧ラテン文字で書かれていることがわかります。

どこでわかるかというと、後半の”mədənijjət”のjjのところ。「革命と文化」という雑誌名で、「文化」という語は現在のアゼルバイジャン語ならmədəniyyətとなるはずなのです。それがこの綴りということですから、なるほど旧ラテン文字のほうだな、とわかるわけです。

内容もさることながら、こういう雑誌一冊でも入手すれば、今からおよそ100年近く前のアゼルバイジャン語旧ラテン文字を堪能できるというわけです。ちなみに私個人はこれ以外に、プーシキンの詩集の旧ラテン文字表記での翻訳書などもゲットしたりなどしました。許されれば、ここでも中身を見せたくてしょうがないくらいです。

伝わりますかねえ?このかつて使われていた文字を目にする幸せ感!

この旧ラテン文字については、また稿を改めて述べるとしまして、今回は半世紀にわたって使用された、キリル文字について少し。

街で見かけるキリル文字

ということで、今回は1940年から91年まで使用された、キリル文字について。今のバクーにも、わずかに残っているところがあります。

まず目につくのは、バクー市内の建物の至る所に貼られている説明文。

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かつてのアゼルバイジャンの偉人が住んでいた場所に、このように表記が貼られています。

たとえば上の写真だと、「この建物には1960年から71年まで、アゼルバイジャン民衆詩人、ヒュセイン=アリフ氏が住んでいました」という内容のことが書かれています。バクー市内中心部の建物には、偉人が住んでいたという建物があちこちに。

追記:表札の"халг шаири"の部分(現行のラテン文字で転写すると"xalq şairi")は「人民詩人」と訳すほうがより正確なようです。旧ソ連時代、詩人に対して贈る最上級の栄誉賞号が「人民詩人」ということなのだそうで、そのアゼルバイジャン社会主義共和国版がこのxalq şairiということだそう。露探さま、ご指摘ありがとうございます。勉強になりました(エキスパートの知識すごい)。

アゼルバイジャン現代史などを研究している人にとっては、きっと関心を引くものでしょう(たぶん)。

ほかにもあるでしょうか。

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おっと。これらはトラップだ。
アゼルバイジャン語ではなさそうです。おそらくはロシア語ですね。見分け方は…当時のアゼルバイジャン語で使われなかった文字や記号(特にь)があるかどうかというのが一つ。

それと、純粋にアゼルバイジャン語として読めないとき、かつロシア語のものと思しき前置詞(сとかиとか。ロシア語、全然詳しくないのですがたぶん前置詞のはず)がある場合は、ああこれはたぶんロシア語だな、という見当がつきます。

ロシア語サッパリワカラン状態でも、アゼルバイジャン語ではないな、ということくらいなら見分けはつくということですね。

国立の研究機関、科学アカデミーの建物もソ連時代のまま残されていたりします。これに気づいた時の、うわあソ連だ!という感覚をみなさんと共有できたらどんなにかいいでしょうか。

いや、ソ連趣味は実際はほとんどないんですけどね。私。

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上の写真、これも旧市街近くに堂々とそびえ立つ壮大な建物なのですが、この上の部分、「アゼルバイジャン・ソヴィエト社会主義共和国(!)科学アカデミー」という文字が目をひきます。

CCP!
これはキリル文字ですから、つまりラテン文字に転写するとSSRとなるわけですね。ソヴィエト(Sovet)社会主義(Sosialist) 共和国(Respublikası)。そのまま表記が残されているのです。カッコいいよね…

ちなみに手書きのものも一度だけですが、市内で見かけたことがあります。2018年。

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この写真、おわかりになりますでしょうか。土産物屋さんの一角ですが、fotoと書いてあります。「写真」ですよね。それが、1 manat。「マナト」はご存知アゼルバイジャンの通貨単位。

いったいいつからこの張り紙はしてあるんだろうか。そしてここに並んでいる商品はいったいいつから…

🧿🧿🧿🧿🧿🧿🧿🧿🧿🧿🧿🧿🧿

というわけで、街中のキリル文字というお題でした。

私は、どの時代のアゼルバイジャン語も好きになる自信があるな。ウン(まあそれをドヤってもしょうがないんだがね!)。

なんというんでしょう。文字それ自体もまた、文化としての価値を帯びているものだと思うんですよね。ただでさえそれなのが、さらに自分の今ハマっているアゼルバイジャン語のかつての姿を今見れるわけですから。

バクーの景色をみていると飽きないよ、と私が周りに力説していうのは、今回書いたようなそのあたりも含めてなのです。

嗚呼、伝わったかな…。

※かつてのアゼルバイジャン語キリル文字表記については、こちらの本でも少し言及がありますので、興味のある方は目を通してみてください。





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