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役割語の恩恵をかみしめるのぢゃ

昨日のコルシカ語版『星の王子さま』に引き続き、ご恵贈御礼をもう一つ。奇しくも、同じ日に自宅に届きました。新しく文庫本として再公刊とのこと、相当インパクトがあったということなのでしょうね。

初版が出たときにすでに一度通読したことがあったのですが、文末の表現(「博士語」の「~じゃ」、「お嬢様語」の「〈名詞〉+だ/です+わ」など)の表層的な部分は、たどりたどっていくと歴史的な観点、言語に関するステレオタイプの問題と、議論の観点が広範囲にわたっているという指摘に大変衝撃を受けたのをよく覚えています。

実は、2017年にトルコにいた頃、現地の年に1度開催される日本語教育のシンポジウムに著者である金水先生がいらしたことがありました(チャナッカレでの大会です。あの時期政治情勢が怪しいとされていた中、ご多忙なスケジュールを縫って講演にいらしてくださったのでした。懐かしい!)。

そのときのテーマがまさに役割語についてのもので、私自身先の本をすでに読んでいた経験があったので改めてその時に読書の記憶を掘り起こそうとしたものでしたが、そこで先生が「ぜひトルコ語でも役割語の研究を…」という趣旨のことを最後におっしゃったのが、今でも頭のどこかに引っかかったままでいます。

かように広範囲の現象に気を配りながらでないと成立しないジャンルの研究で、もしトルコ語について役割語の研究に取りかかろうと思ったら、文学作品なりカリカチュア(風刺漫画)なり、なんならオスマン語にも手を出さないといけなくなるのだろうな…

…と思うと、とても自分一人では何かできそうにないなという軽い絶望のようなものを感じたから、というのが、今もひっかかっている理由なのだろうと思うのですが。まあしかし、トルコ語の役割語のことについてはまた後日考えるとして(←あかんタイプのやつ)、ひとまずはまた読み直してみるとしましょう。なんせ、私自身もこのnoteで役割語の恩恵にさずかっているのですから…

これなどは典型的に「大阪ことば」を役割語として利用した文章といえます。なぜ「あるじ」(=ぴの)は大阪のことば(もどき)を使っているのか、そして人間(飼い主=「しもべ」)は本来長崎のことばを母語としておきながら、ここでは標準語(共通語)を使おうとしているのか。

そのあたりの答えは、上述の金水先生のご著書を読むときっとクリアになってくるかも…しれんのう…ともかく、未読の方は日本語研究にコミットするしないにかかわらず、ぜひお読みになるとよいぞい。

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