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フクシマからの報告(下)「カネは人を変えてしまう」原発事故が引き裂いた山村の絆

 2017年春、福島第一原発事故の被災地を訪れた取材記録の3回目を書く。今年3月末、政府が「除染は終わった」として「避難指示」を解除し「平時」に戻すことを宣言した、福島県飯舘村、浪江町などを取材して回った。その報告である。


 今回は、飯舘村に最初に帰った村人の一人、愛澤文良さん(75)に話を聞きに行った。3・11直後、現地に知り合いのいない私に、飯舘村についての初歩知識をコーチし、案内をしてくれた、愛澤卓見さん(46)のお父さんである。

 卓見さんは、インターネットで村の現地情報を発信する青年層のグループ「負けねど!飯館」の一人だった。「負けねど」が東京で記者会見をしたときに知り合って、ずっと連絡を取り続けている。

 自宅前の愛澤文良さん(2017年4月23日、福島県飯舘村で)

 2011年、村を最初に取材に訪れたとき、愛澤家を訪問した。立派な和風の屋敷だった(家屋だけで230平方メートルある)。木造の農機具小屋に、ミノや菅笠が掛けてあるのを見て感嘆した。

(2011年9月7日、福島県飯舘村の愛澤さん宅で)

 息子さんの寝室では、室内なのに、線量計が毎時4マイクロシーベルトを記録したこともある。一日8時間ここで眠ると、一ヶ月あまりで年間の許容量を超えてしまう線量だった。

 その次に訪問したのは、無人になった村に取り残された飼い犬にエサをやるボランティアに同行取材したときだった。放射性物質を帯びているため、イヌやネコは連れ出すことを許されなかった。写真を撮っていて、大きなイヌに太ももを思い切り噛まれた。ズボンに血が滲んだ。無人の村で、応急手当をしてくれたのも、愛澤親子だった。

 というわけで、取材とは無関係に、お父さんには何度か会ったことがあった。息子さんが帰村に慎重で、お父さんが楽観的であることをおぼろげながら知っていた。

 地元の人は口が固い。なかなか本音を教えてくれない。「事故直後から、直接お互いを知っている」というのは、重要である。

 親子の間でもなぜ見解の違いが起きるのか、じっくり話を聞こうと思った。改めて、取材をお願いした。

愛澤さんの自宅(2017年4月23日、福島県飯舘村で。

以下、特記のない限り写真はすべて同じ)


 原発事故直後、政府が原発を中心に「半径20キロ」「30キロ」の人工的な線を引いて事故対応を決め始めたとき、私は現地はとんでもないことになるだろうと確信した。人工的な線の両側には、生身の人間が住んで生活している。人工的な線の「内側」「外側」で政府の対応(避難、除染、補償など)が違えば、住民は分断され、対立するだろう。

 残念なことに、悪い予感は当たった。家族、親族、ご近所、ママ友、同窓生、職場の同僚。あらゆるコミュニティで「汚染」をめぐって分断と対立が起きた。陰口や中傷が飛び交った。

「避難を続ける」対「地元に帰る」。「補償を受けられる」対「補償がない」。原発事故は家族や近隣に対立と紛争のタネをばらまいた。地元の人たちが長年大切にしてきた「縁」がズタズタになった。

 被曝による健康被害が出るまでもなく、それこそが原発事故が残した「今、そこにある被害」なのではないか。私はそう書いてきた(詳しくは拙著『原発難民』=PHP新書を参照)。


 時間が経つにつれ、事態はますますややこしくなった。政党・宗教団体、学者が楽観・悲観両論からの発言をネットなどマスメディアで繰り広げた(=一例として新々宗教「幸福の科学」の政党『幸福実現党』福島県本部代表である矢内筆勝氏を挙げる。同氏は、原発事故の放射性物質の健康への影響について極めて楽観的な見解を主張している)。正体不明の「市民団体」がネットで両論を展開した。新聞やテレビは「復興は順調」という論調を打ち出すために帰村者たちをもてはやした。

 それぞれ故郷や家族を愛する気持ちは同じでも、現実をどう認識するかの違いによって意見や行動は食い違う。それぞれが「よかれ」と思ってすることが、すれ違う。そこに第三者が便乗する。マスコミやネット上で自分たちの主張のために村人を使う。ますます亀裂がひどくなる。

 横でずっとそれを見てきた私は、いたたまれない気持ちだった。

(冒頭の写真は愛澤さん宅のサクラ)


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