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アイにできること

敢えてカタカナで書いた言葉。映画館で見て、めちゃくちゃ面白かった。泣きたかった。でも素直に泣けなかった。凄い作品に出会えたなって思えたけど、喜べなかった。前にも書いたけど、また考える機会があったので文字にしてみます。同じ話題であっても、感じることは変わるし、きっかけも色々。

改めて考え直してみたきっかけは、新海監督が好きな生徒からの言葉でした。彼にとって、人との出会いは愛なんだと。友情も、信頼も、全て自分にとって大切な愛なんですよと。

そう考えて、配信が始まった「天気の子」が頭に浮かんだ。主題歌でもあるRADWIMPSの「愛にできることはまだあるかい」が印象に残っている。新海さんのインタビューを読んだ。「君の名は。」で、創られた物語は今回も続いている。僕の中では、「君の名は。」と「天気の子」は新海さんと野田さんによるものだ。新海さんの紡いだ物語と野田さんが紡いだ音楽はセットになっている。

「君の名は。」は救いと自己肯定の物語だ。決して変わらないものを変えるきっかけが起きたとき、訳が分からなくても死に物狂いでやるんだと。現実では救われなくても、救われることがある。そんな世界があってもいいんじゃないかな。でも、忘れてしまう名前。「名前を呼ばれると自分の存在を確認できます」と言った生徒がいた。なるほどと思った。僕が僕であることの証明は、自分で考えること。でも名前がないと迷子になる。名前は僕だけのものだから、自分の存在を確かめる術になる。その名前を忘れたとき、人は戸惑う。それを思い出す物語。

「天気の子」は雨が降る世界という設定以外は、僕たちが暮らしている世界にどこまでも近い。雨が降る世界が存在する確率は0じゃない。そうなると、「100%の晴れ女」がいたって不思議じゃない。

そんな世界には「アイ」が溢れている。「アイ」には色々な意味が見出せる。まず思い浮かぶのは、TV版エヴァの最終話「世界の中心でアイを叫んだケモノ」。このカタカナから、アイが含む意味は一つじゃないんだって考えてる。

I(私)、EYE(目・眼)、合(合致する)、哀(かなしみ・慈しみ)、相(他人)、会・遭(出会い)、遇(偶然)、そして愛(愛すること)。

全て、僕らにとって大切なものばかり。色々な感情が入り混じっている。「愛にできること」は「アイにできること」だとしたら、物語の中の帆高の感情は全て「アイ」によるものだ。彼は自分の「アイ」に忠実。そして、愛に対して、最後の選択を行う。帆高にとって大切なのは、自分にとっての「アイ」なんだと思う。

世界は異常気象によって姿を変えた。でも、「アイ」は叶った。めでたしめでたし。

とはならなかったんだな。少なくとも僕にとっては。その「アイ」は自分だけのものじゃない。周りに生きる人たち全ての「アイ」。選択に伴うリスクと犠牲、そこまでの覚悟を持つことに気付いていない。気付いていないからいいのかとはならない。僕は生活する中で、選択することの怖さもなんとなく味わってきました。選ばなかった選択肢は、たらればにしかならないし、確かめようがない。責任を取る覚悟で物事を選ぶ。自分自身にとっての責任だけじゃなくて、関わる人、影響を与える人全てにとっての責任だと思う。

気付いていない人がいると、はがゆい。新海さんの描き方、野田さんの歌詞の意味はその側面も全て含まれているんじゃないかな。「天気の子」が好きだった人たちは、登場人物みんなに幸せでいてほしいと願っていると思うから。彼らの未来が、雨で沈んでゆく世界だなんて、救いがないじゃないか。

映像がきれいなだけにダイレクトに伝わってきた。今外に出たらまるで雨が降っているような。雨が沈めたものは私たちの「アイ」。それでも、あなたはそれを選びますか?その覚悟は持てますか?

気付いていない帆高。「賛否両論があるかもしれない。叱られてもおかしくない作品だ」。それらを提示しつつ、それでも前に進み必死で生きる人たちを書いた新海監督。彼は全てを分かった上で書いている。だからこそ、どう生きるかを色々な人に考えさせてくれるんだ。

「愛にできることはまだあるかい」「僕にできることはまだあるよ」

自分にできることはまだあるのかもしれません。「アイ」を胸に、明日も狂った世界を生きていこう。


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