愛にできることは

日本のアニメが好きです。新海誠さんの作品が最近は好きで、よく見ています。

9月に、「天気の子」を見ました。まず描写がすごいアニメは現実ではない、絵によって構成されているので、実写よりも虚構の要素が強くなるものです。しかし、アニメと分かっていながら現実世界を強く意識させるものとして、この作品は素晴らしいと思う。

演劇が作られた当初、現実からの飛翔力を問われていました。私たちが作る物語の様々な手法の根本にはもともとそのような考え方があったのです。特に、アニメは静止画の連続という手法によって、「動くように見せながらも現実から乖離した世界」を表現するのに優れています。

自分が好きなディズニーやジブリは、その魅力によって保たれている部分があったと思う。特に僕が好きな「ライオンキング」や「アリス」、「ラピュタ」や「ナウシカ」は、虚構の中にドラマを入れ込むことによって、非現実に現実を重ねて楽しみ、終わった後に現実に還ってくるという体験が可能となります。

しかし、「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」、「君の名は。」は、より現実世界に近い中で語られている。私たちが住んでいる街で繰り広げられる物語。特に、「天気の子」では、東京を身近に感じる人とそうでない人たちで感じ方が全然違うと思います。池袋で見たのですが、今まさに映画館の外で登場人物が動いているような錯覚に襲われます。同時に、自分もこの物語に関わっているのではないか、と感じられるのです。現実とのリンクが非常に強い。同時に、登場人物が身近に感じられる。近くにいそうな気がしてくる。

一方で、共感が出来るかは個人に委ねられます。シンバを応援する。パズーとシータに声援を送る。ハッピーエンドを願う。

新海さんの作品では、そうならない。登場人物を応援するのではなく、展開に目が行く。人格が時空を超えて、100%の晴れ女が存在する虚構も「あってもおかしくないな」って納得したとき、彼らの行動が気になりだす。

僕は帆高に共感できなかった。応援する気にはなれなかった。自分勝手じゃんって思ってしまう。でも、今の日本なら家出して、暮らせるようになることもあるだろうな。だからこそ、現実目線で彼の未熟さが目に付く。(ちなみに「君の名は。」の瀧くんには共感できました。描き方による違いかもしれませんが、新海さんはそこまで考えて作っているようにも思います。)

そして一番印象に残ったのは、ラストのシーン。世界を救うのか、一人の少女を救うのかという選択を迫られます。彼が救ったのは一人の少女でした。

数年後、止まない雨によって日本が水に沈みつつある日常が描かれます。少女は救われたんだけど、確実に世界は変わりつつ(滅びつつ?)あります。そんな世界にしてしまうほどの選択をしてしまったことが僕の中には残りました。彼は自分が優先するもので、その他大勢の人々の世界を変えてしまったのです。

変わってしまった世界で須賀さんは、「まあ気にすんなよ、青年」・「世界なんてさーどうせもともと狂ってんだから」と、帆高に言います。でも、それを救いにしてしまうほど、楽なことはありません。

何かを選ぶことは、何かを捨てることであるというのは、まぎれもない事実です。RADの野田さんは「愛にできることはまだあるかい」と唄っていましたが、その愛にできたことは、一人の人間を救ったと同時に、それ以外の人たちの人生を大きく変えてしまいました。

自分の選択によって得をする人もいれば、損をする人もいる。選択には、少なからずそのような要素が含まれている。その責任を背負って生きていく必要があるというメッセージのように感じました。

「君の名は。」の瀧くん、三葉、てっしー。「言の葉の庭」のユキも生きている世界で行われたこの選択は、彼らの運命をも変えてしまった。新海さんの作品を好きな人なら、意識してしまうはず。僕たちに委ねられていた物語の続きを、帆高は決めてしまった。

そういう責任を込めて、それでも新海さんは「天気の子」を作ったのではないでしょうか。

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