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徳を積むように

徳について考える機会があって、吉野弘さんの「夕焼け」を読んだ。何とも言えない気持ちになった。

電車で席を譲った少女は何を考えていたのだろうか。何を求めていたのだろうか。

いいことをする。それは誰のために?自分のために?誰かに感謝されるためじゃないと、思いたい。だってそうじゃないと悲しくないですか。それは裏を返せば偽善だということになる。

真心って何でしょう。真の真心なんてないのかもしれない。僕の心はそんなにきれいではない。無償の、なんて言葉を本当に実行している人がどれだけいるだろう。徳は徳であって道徳ではない。あるべき正しい姿なんて誰にも分からない。それは規範として存在している。いわゆる指針のようなもので、不完全な存在である僕ら人間がどうにか社会生活を送っていく上で作られた概念だと思う。

人のために席を譲り続けた少女はいつか譲らないことを責められるのだろうか。それでも我慢しなければならないのだろうか。

一人が何かをすればよいというわけではない。その人の背中に背負うものは何だろうか。その背負うものが徳に繋がるものなんじゃないかと思う。誰かのための自分の思い。でもそれは重い。背負いきれなくなる。

誰かがいないと生まれないものであり、持ち続けることが難しい。だから、皆が持つことが大切。一人で徳を積む、のではなく、皆で徳を生む。そうすれば、美しい夕焼けを見ることが出来るんじゃないかな。



いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に。
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をギュッと噛んで
身体をこわばらせて---。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

吉野 弘

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