私という人間を知りたい

私という人間は、一体何者なのだろうか。
友人からもらった言葉や、自分自身として思うところを並べてみようと思う。

私は、一言で言うと人たらしらしい。
確かに、気が付くと人に囲まれていることが多かった。
そうやって人間の中を生きてきたと思う。

多分、邪気がない。曇りがないというか、真っ直ぐだ。
本音しか話せないから、人間とはあまり上手くいかない。
だけど、それが私という人間を形成しているのだろう。
変わった人間だ。私も、私についてそう思う。
無難ではないし、なんというか、その辺には転がっていない存在が私だと思う。

『心の開示性が高い』と言われた。
友人から上記の言葉を受けた。感情が漏れ出している生命体が私なので、そういう側面もあるのだろう。それに、私は適当な言葉は決して言わない。いつも言葉は真剣に、本気で放っている。感情と言葉で私は構成されているのかもしれない。そんなことを考えている。

『常に思考を巡らせている癖が人格を形成している』
私は人間の24時間について、他の個体よりも圧倒的に思考を巡らせている時間が多い。常に何か悩んでいるし、考えている。言い方としてだが、考えていない時間が存在していないかもしれない。悩みが多すぎる日は夢の中で、議題に関して密接な関係を持つ内容を見せられたりするほどだ。

常に思考を巡らせている私だからこそなのだろう、友人から『独自の哲学・美学を持っている』と言われた。普段から、自分の意見を主張しているからだろう。思えば、物心ついた時からそんな感じでした。
独自性のある核心を捉えた意見を様々から発見できるように脳みそを回転させていました。意識的に、無意識的に、好奇心のままに、プライドも備えつつ。アイデンティティとして、思考することをなによりも大切にしているのでしょう。名は体を表すとか言いますが、私のペンネームも”思想を食む少年”なので、とにかく思考を巡らせては発見して、思考してを繰り返すことが好きな個体なのだと思います。

ここで、私の最近の悩みにも触れてみたいと思います。
一番初めの項目として、『人たらし』という言葉を用いました。
これに関しては、確かな自覚症状があります。
人をコントロールしたこともあるし、とにかく、組織やグループの中で暮らす、生存するための動きを学んで生きてきた自覚があるのです。

でも、邪気があまりないのです。これは人間としては珍しいタイプだと思います。何と言いますか、本心を開示する能力がずば抜けているように思うのです。

感情の伝え方とその熱量に関しても、混じりっ気のないままの形で、ただ、丁寧に伝えているような気がします。控えめに生きられた試しがないかもしれない。割と、剥き出しのままに生きているような、そう見えているような気がします。

人間に対して、腹を見せる風の態度を示すことが得意なのです。
染み付いた生態です。私であり、私ではないものがこれです。

ですから、問題となってくる部分としては、この邪気のなさが本心なのか、本質なのかどうかです。
ピエロは舞台上は明るく振る舞うわけです。それが染み付いてしまって自我を喪失しているとしたら、恐ろしいことですよね。今、そんな具合の悩みを抱えています。

生きるための生態に、自分を食い潰されているような、そんな感覚がします。私はどこにいるのでしょう。青年期の悩みみたいですね。人間はいつだって悩むでしょう。これを繰り返しながら生きるのが多分私なので仕方がないですね。

『自分としての意見を主張することが出来る』
私の特筆すべき特徴としては、やはり思考する量が多いことによる、言葉や論理の固まった意見が出せることだと思うのです。

必要な(求められている)内容に対して、適切かつ穿つような言葉を投じることが出来るような気がしています。しかしながら、本筋からは脱線することはあまりないので、この辺りは能力と見ていいでしょう。

要点を整理する能力と、状況を理解する/把握する能力の両方が備わっているからこそ出来ることなはずです。

また、相手の考えや表現は相手の考えや表現でしかないという頭も備わっているので、自分の考えと相手の考えについての離別化がきちんと成されているように思います。(友人からは『善悪とか関係なく意見を述べることが出来る』と表現をもらいました。)

要するに、自分の意見について、相手に理解させようという気持ちがほとんどないのです。意見は、ただあるだけです。その人間にとって必要な箇所だけ持ち帰っていただければいいと、そう思っています。

そして、私が私の意見に対する考え方として好きなところは”真実を究明しようとする姿勢”があることです。辿り着くことないと知っていながらも、出来る限りの思考を行おうとするところが、実に私っぽいなと思っています。

因みに、感覚に基づいて推論を行い、その仮の結論に対して、論理的な道筋立てを行うのが私のようです。だから、結論は結局出せない。着地点のない場所について思考を続けてこその私になるわけです。

私の仮面(ペルソナ)について
私の人格は主に2つあるようです。
ひとつは、冷静沈着で独りでいることを好む人格
ひとつは、感情表現豊かでオープン、人といることを好む人格

普段、外で過ごしている時や、心を許していない相手に対して発動している人格は前者の側で、安心している相手に対しては後者の人格を発動させているような気がします。

現在、私は”素の自分”、”本当の自分”を探してこの記事を書いているのですが、どうやら両方とも素の自分のようです。もちろん、割合の問題もありますが、どちらもリラックスした状態であり、快を求めるがためのつくられた人格なのだと思います。

『秘めたるエネルギー量が多い』
これは自分自身でも思うことなのですが、有している感情の量が、他の個体と比較して多いように思うのです。感情が時々、どうしようもなくあふれる瞬間が人生においては存在するわけですが、その表現の強さが、特に強い個体な気がします。誰かの心にまで情動が届く、そんな量の感情が私からは放たれているような気がするのです。

【私を生き物に例えるならば? 漢字一文字で表すならば?】
これはキャスをしながら集めた情報です。さっくりと書いていきましょう。
狼、犬…という意見が割としっくり来ました。
私としては犬っぽいと自分について思うのですが、インターネットで放っている人格で言うならば、狼の成分の方が色濃いかと思います。

漢字については、考、求、駆、憶、慮などの言葉をもらいました。
過去には、『轟』、『尊』、『和』とか
後は、文字数の縛りなしならば、『孤高』とか、『可能性』とか言われました。

私としては、『孤高』という言葉が一番しっくり来ています。
なんとなく、先ほどの狼のイメージとも通ずる部分がありますよね。
そこも含めて、好きです。

あとは、『探求』している感覚はあるので、『求』もしっくり来ますし、
『憶』および『慮』についても、『思』の字が埋め込まれているので、なんとなく好ましく思えます。

『人に媚びない』とも言われました。
独りを極めようとしているのかもしれませんね。
これは本心ですが、私は脳みそひとつ付いていれば満足ですからね。
恐ろしいことです。

最後に、
私が生きている理由は”認められたいから”のようです。多分、そうなのです。
独りで生きていくことが好きだとか言いつつ、人間から存在を承認されないと、結局は生きていけないのですね。なんてことでしょう。
自分の人生を超越したいだとか、価値を失ってはいけないだとか、そういう圧力の中で暮らしています。実に辛そうですね。
なんとか生き延びられるように願っています。
鬱から、人間から脱却できますように。
縛られているものを見つけて、自分を復活させられますように。

私は死ぬこともそこそこに好きだが、生きることもほどほどに好きだ。
繰り返しの折り返し地点にいる。生存します。さようなら。

本日もnoteを閲覧してくださってありがとうございます。
最近は調子が優れないので、更新はしばらく滞るかもしれません。

それでは、おやすみなさい。よい夢を。

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