愛情欠乏症。

こんばんは、今日は”埋まらない心”に関しての考察をしていきたいと思います。
私は人のことが好きな方です。自覚があります。人のことを一生懸命に支えては、その先でまた誰かに助けられて生き延びてきた実感があるのです。

ですが、この際限のない愛情を求めてしまう心というのは、要するに依存する心とほとんど同じ位置にあるのではないか思うのです。

私のことを完全に否定しない存在』を求めて、この世界をずっと生きて来ました。そんな存在はいるはずもないのですが、人と関わった後はいつも嫌われたのではないかと頭の中で、意味もない考えを巡らせてしまいます。

私の口癖は『褒めて』とか『私のいいところを教えて』とか、そういった”自分の存在意義の確認”という属性を持ったものです。存在意義の確認に関しては問題はないと思うのですが、自分の存在意義を問う際に他人を介在させてしまっている点に、埋まらない不安感があるのだと感じます。

定期的に他人から自分の存在を知らせてもらえないと、生命維持が出来ないのです。まったく、弱い存在です。

これを克服するにはどうしたらいいのかを、今までの経験も含めて考えてみようと思います。
褒められたい、認められたいという感情自体は悪いことではないと思うので、それは自分自身が認めてあげるものとして、問題はその濃度になってくるはずです。

よく言うところの、『依存先を増やす』という感覚に近いもので、子供の頃などに得られなかった承認されている状態の時間の確保を、他人で補って生存する必要があると思っています。

自分のことを承認してくれる人間を集めて暮らすことがなによりも重要ということです。
他人は親ではないし、自分のために生きてなどいないのだから、少しづつ、自分のことを承認してくれる存在を集めることは必要で、そのひとつひとつが大切なものになってきます。

但し、自分のために何かを投げ出してまで愛情を送ってくれる人がもしいるのだとしたら、それはどんなものであろうとになってしまうから、避けて歩くべき存在である。とも言えると思っています。
私自身、共依存の経験があるので、そういったことを思います。
相手のために自分の人生を擲つことは、結局はお互いの感情も人生も破壊してしまいます。お互いが自分の人生を生きることを基盤として、人を愛する姿勢こそが、継続できる形式の愛情なのだと、今はそのように考えています。

改めて結論を置いておきますが、親(己の全てを肯定してくれるはずの存在)の代わりなどこの世界のどこにも落ちてなどいないのです。だから、安心できる瞬間/時間を可能な限り増やして暮らせたなら、愛情を無尽蔵に求める状態を減少させることが出来るはずだということです。

安心している状態の人間は揺らがない強さを持っています。
私もいつか、そんな大きな存在になりたいです。
明日もまた、悩んだり考えたりしたいなと思います。

本日もnoteを閲覧してくださってありがとうございます。
明日も投稿しようと思います。
そういえば、昨日は疲れてしまっていたので、noteはおやすみしました。
でも、なんだか、生活の一部として続きそうな気がしています。

おやすみなさい、よい夢を。

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