心の傷の責任は誰が取るべきかという話

もし、人生をゲームに例えると、自分の常識や価値観や信念や理想はマイルールやローカルルールに当たると思う。みんな自分なりのローカルルールを自分で作って、自分で縛りプレイをする。

例えば「人を傷つけたくない」というルールを設定する。
人を傷つけたくないから、人を気遣い、言動に気をつける。もし人を傷つけてしまったら、自分が傷つくなどの罰を受ける。罰の形も人それぞれだ。
同じルールを設定している者同士では、ルール違反をする人がいないから心地がいい。みんなで同じルールで人生をプレイしているのだから。
だが、当然ながら、人によってルールは違う。

ここにはあまり反対意見はないと思う。常識や信念なんて、人それぞれ。当たり前。
だが、他者は自分がどんなルールや罰を設定しているのか知らない、ということは忘れがちなのではないか、と私は思う。忘れがちだからこそ、人が自分のルールに沿わないことをした時に、嫌がらせと思い込んだり、察してもらえないことに腹が立つ。

例えば私は「無能ではいけない」というルールがある。仕事で優秀だと思われたい。できる人だと思われたい。そんなルールだ。
だから、調べれば簡単にわかることを質問する人に腹が立つ。簡単にわかる方法があるのに質問をすることは無能だ、と私が規定しているからだ。それをするのは無能のカミングアウトであり、私のルールに抵触する。
「無能でいてはいけない」というルールを設けていない人にとっては、どうでもいいことだ。

自分の感情や心が傷つけられた時、相手に本当に悪意があるのか、自分で勝手に決めたルールに反したのか、それを見極めるのは自分しかいない。
そして、自分で決めたルールの責任は自分で取らなければいけない。傷つきたくない、でもルールも撤廃したくない、それはわがままだ。自分で決めた縛りプレイに他人を付き合わせてはいけない。

と、私は思って生きている。
だから、人に厳しいと言われる。自分にも他人にも厳しいと言われる。他人に厳しいくせに自分には甘いと言われるよりはいいが。
自分を律したい、とは確かに思っているが、実はそうではない。私は「傷ついても気分を害されても、自分のルールで生きさせろ」と言っているだけだ。要は、私のわがままだ。

だが、他人をコントロールしたり、自分ルールで傷ついた責任を他人に押し付けようとするよりは、多少はマシなわがままではないかと思う。
どうせみんなわがままなのだ。どこでどうわがままさを発揮させるかの違いしかない。せめて人様に迷惑をかけにくいわがままでいたいものだ。
こんなことを思っていても、人の謎のルールが理解できずに腹を立てるのだが。

まだまだ修行が足りない。

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