【INTJ】自由、自主、自律、自尊という言葉の話

「自由自主自律自尊」という言葉は、銀河英雄伝説のアーレハイネセンの言葉だ。初めて銀英伝を読んだ時は、この言葉に特に感銘を覚えなかった。私は初めて銀英伝を読んだ時から今までずっと帝国派だからだ。同盟の人たちも好きだが。
私の好みはいいとして。

私はアラフォーになってようやく、この言葉の重みを感じるようになった。「ヤン提督は叱ってくれないから自分には自律が必要だ」と若いながらも気づいたユリアンは本当に立派だ。
大人になってから、自分の悪いところを指摘してくれる人は本当に貴重だ。私は特に人間関係が閉鎖的なので、ユリアン以上に自律が必要な人間なのだ。

自由自主自律自尊が四拍子揃っている大人はいたとしても、ものすごく少数だと思う。価値に気づけない人もいる。
若い時は、この言葉の意味を履き違えやすい。自由だから何をしてもいい。自主だから人の話を聞かなくていい。自律だから好き勝手やっていい。自尊だから自分は偉い。かく言う私もずいぶん好き勝手やってきた。今もそこそこ好き放題だが。

自由や自主も当然大事だが、今回は後者について書いていきたい。
自律とは、自らを律することだ。辞書的な意味としては、自らの価値観などの規範に従って能動的に動くこと、になる。まずもってして、自分の価値観をしっかりと確立させることが難しい。
むしろ、若い頃の方が自分は自律していますと胸を張って言えていただろう。若さゆえの青さだ。時と共に、価値観も信条も人生哲学も変わっていく。そんなことさえ、私は気づけなかった。
自らを律すること、自らの規範に自分の言動の審判を受けること、自らの価値観や信条を常に見直して誤謬がないか考え続けることは、本当に難しい。

自尊とは、自らを尊ぶこと。辞書的な意味でいえば、自らの人格を尊重すること、になる。
私は自己肯定感も自己愛も強い人間だ。だから自尊はできていると思っていた。だが、辞書にはこうも書いてある。「品位を保つこと」
私は、人格的な上品さではなく、人としての尊厳を守ること、と解釈した。自らの尊厳を守ること、これもまたとてつもなく難しい。
他者や自らの愚かさによって、自らの尊厳を傷つけられた時。瞬発的な怒りや我慢をするのではなく、相手や自分に理解してもらうのは本当に根気がいる。

孔子は「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず」と言った。70歳で思うままに生きても人の道を外れなくなった、という意味だ。
自由自主自律自尊は、まさに思うままに生きて人の道を外れないことなのではないか。孔子が70歳までかかったのなら、40に手の届いていない私ができていなくても恥ずかしくはないのかもしれない。
私は孔子ではなく、ただの中小企業の事務員なのだから。

銀英伝と同じ作者の書いたアルスラーン戦記で「質のいい主人の元でなら奴隷でいる方が楽だ、難しいことを考えなくて済むから」という趣旨の発言がある。うろ覚えで申し訳ない。
鞭で叩いたり、過酷な労働を強制したり、食べ物を十分に与えない主人はもっての外だ。だが、体罰もなく、過酷でない労働で、衣食住提供されれば、奴隷でもいいという人は意外といるのではないかと思う。
難しいことを考えなくていい。毎日同じことの繰り返しでいい。自分の意見なんて言わなくても、誰かが決めてくれればいい。成長できなくてもいい。価値観や人生哲学なんて考えたくない。自分のことも他人のこともどうでもいい。
ただ毎日を恙無く暮らせればそれでいい。

自由自主自律自尊を自ら手放した人は、まさに奴隷のように生きていくしかない。それでいいと思う人もいるだろうが、私は嫌だ。
私は「ルドルフに可能だったことが私に不可能だと思うか?」の精神で生きている。銀英伝のラインハルトのセリフだ。自由自主自律自尊を四拍子揃えた人は地球上にはいるだろう。なら、私に不可能なはずがない。まだ道半ばだが。森林限界どころか、登山口でウロウロしているが。

私は「自らの意志」という神に仕えるINTJなのだ。人生100年時代、まだ私は折り返し地点にも来ていない。まだまだこれからだ。また一つ人生が楽しくなってきた。
死ぬまでに、自分だけのの自由自主自律自尊を完成させてやる。

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