肯定と否定と人格と尊重の話

私の好きなクリエイターさんが、否定と肯定について書いていた。申し訳ないが、否定すべき点が見つからなかった。
私も、全肯定が嫌いだからだ。否定すべきところが見つからなかったので、私なりに肯定と否定を考えて記事を書いてみる。

私は、誰かを全肯定することは全否定するのと同じくらい相手の人格を軽視していると思う。
私には他人に絶対見せたくない醜い部分がある。自分でも認めたくなくて、つい目を背けてしまう、そんな一面。それすら、自分を作る大切な要素ではあるが、人には見せたくない。
全肯定することは、自ら否定したいところすら勝手に肯定されてしまう。それはあまりにも無神経だと、私は思う。

女性にありがちな「全然太ってないのにダイエットする必要ないでしょ」という言葉。一見今のありのままの私を肯定してくれているように見える。
だが、私の痩せたいと思う気持ちや、痩せると決意するに至った私の歴史や、ダイエットの先にある私の理想は完全に無視されている。
この時、私の人格は尊重されているのだろうか。

「最大限相手の人格を尊重する」ということは、対等な条件で相手と取引することだと思っている。
自分を免責するなら相手にも同じだけ免責条項を加える。自分も相手に対しまたは自分に責任を持つし、相手にもしっかり持ってもらう。
同じ条件とは言わなくても、同じだけの免責条項の数つけあって、同じだけの責任を持ち合う。それが、私の思う尊重だ。

「生きてるだけで偉い」という考え方は、心が弱っていたり自死を考えてしまう人にとっては、必要な考え方だと思う。
だが、1人の健康な大人に対して「生きてるだけで偉い」はあまりにも無責任すぎると思う。人は共同体の一員として相応の責任を持つべきだと、私は思うからだ。その人が持てる分だけの責任を持つべきだ。
そして、自分の責任を果たしながら、自分の人生を自分で肯定することが、大人としてあるべき姿だと思う。

ちなみに、私がここまで書いてきたのは状態に対する肯定の話だ。
私には私だけの理想があり、そこを目指し続けたい。だから、不完全な今を全肯定されることに抵抗がある。他者を全肯定することも同じだ。
だが、存在に対する肯定なら、どうだろう。私は私の理想にまだ手が届かない。不完全な状態だ。私の存在自体も否定されるべき点はあるのだろうか。

私は、ないと思う。私はどんな状態であっても、無条件に存在を肯定されるべきだと思う。
存在の肯定について考え出すと、死刑制度や意思疎通の取れない障がい者などの話に及びそうだ。人は法や社会なしに生きていけないから、一切の条件をなしに存在そのものについて考えること自体、私にとってはあまり意味がない。
そもそも、法や社会についての私の理解が浅すぎて、考える要素が揃っていない。その辺りの議論は、他の人にお任せしたい。

人間誰しも承認欲求を持っている。
私は自分で好きなことを書くためにnoteを書いているが、スキやコメントをもらえると、当然嬉しい。それも承認欲求だろう。
承認欲求が暴走する人とそうでい人の違いは、自分で自分を肯定できているかではないかと思う。ほぼスキがつかなかった記事は、誰にもいいと思ってもらえなかったが、私はいいと思って書いているのだ。それでいいのだ。バカボンのパパだ。

自分を否定するのも肯定するのも承認するのも否認するのも、やはり自分ですべきことだろう。
常に人に否定され続けた人にとっては難しいことだとは思う。私の親も毒親とまではいかないが、私を否定する親だった。
だが、親は私にいいことを教えてくれた。私の親は私を否定するくせに、自分を否定されると怒るのだ。なるほど、私も勝手に自分を肯定すればいいのか、と気づいた。私を否定する人と折り合いをつけられるようにもなった。

肯定も否定も相手に対する評価だから、そもそも誰かに評価されること自体が気に食わないだけなのかもしれない。

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