自覚のない無神経さの話

先日、とある本を読んで登場人物の無自覚な無神経さに腹が立った。とても話題になっている小説なので、タイトルなどは書かないことにする。
作品批判ではなくて、キャラが個人的に嫌いだという話だから、書いても問題はない気もするが。

そのキャラが「私はあなたを理解したい、私はあなたを拒絶しない、だから私に話してほしい」と訴えた、その時にものすごい嫌悪感を覚えた。
元々、好感や共感をそのキャラに感じたこともなかったが、ものすごく嫌な気分になった。

私は「理解したい、拒絶しない、話してほしい」と言う人を信用できない。この手の言葉を簡単に言う人ほど、簡単に裏切るとすら思っている。
極端な話、もし私が「過去に人を殺めた。人に罪をなすりつけて逃れた。濡れ衣を着せられた人は無期懲役で服役中」と告白したとして、本当に拒絶しないのだろうか。受け入れてもらえるのだろうか。
簡単に受け入れるのであればそれも問題だし、受け入れないとするならば相手が嘘をついたことになる。

誰に理解されたいか、誰に受け入れられたいか、誰に話すか、誰に心を開くかの選択権や決定権は、相手にはない。当然、私にある。
理解したい、話を聞きたいと思うのは、相手の勝手な感情だ。理解したいのも、心を開いてほしいのも、相手の勝手な都合だ。
それに私が付き合わなければならない義理も義務もない。

冷たいように聞こえるかもしれないが、相手を丸ごと受け入れる、理解するということは、そんなに生優しいものではない。一生涯、どちらかが死ぬまで関係を続けるような相手であっても、簡単なことではない。
誰にだって受け入れられないことはある。あって当然だ。ない方がおかしい。もし話した内容が相手の地雷を踏み拒絶されたら、どれだけ傷つき絶望するのか、それくらいの想像もできないのだろうか。

私は、あまり自分から自己開示をする人間ではない。親密度に応じて、少しずつ相手に自分を見せていきたい。SNSではアカウントを消してしまえば、繋がる手立てはないが、現実の場合は否が応でも関係は続く。慎重にならざるを得ない。
だから、私は他人に心を閉ざしていると思われがちだ。心を閉ざしている訳でもないのだが、自分のことを積極的に話さない様子は、確かに拒絶されているように思われるかもしれない。

そこで登場するのが「理解したい、話を聞きたい」だ。なぜそんな無神経なことが言えるのか、不思議でならない。
そもそも、心を閉ざしているように見える時点で、信頼関係が結べていないのは明らかだ。そんな状態で話してほしいと言われ、素直に自己開示できるようなら、とっくにしている。
なぜ、話してほしいと言う前に信頼関係を結ぶ努力をしないのだろう。

相手は心を閉ざす哀れな人に手を差し伸べているつもりなのかもしれないが、私の気持ちを全く考えていない。なぜ自分の話をしないのか、なぜ心を閉ざすのか、想像をしたこともないのではないか。
そんな無神経な人に、心を開いて何でも話したくなる人がいるのだろうか。余計なお世話ここに極まれり。
おそらく相手は、自分の無神経さを自覚していない。だからそんな無神経なことを素面で言えるのだ。

私はその手の人に対して、ものすごく警戒するし頑なになってしまう。誰に対しても自己開示が苦手な私が無神経だとわかっている相手に自己開示する理由などどこにもないからだ。
結末はいつも同じだ。「人には言えないことが色々あったんだね」訳知り顔で勝手に納得されてしまう。
そうやって決めつけるから、話したくないのに。

ちなみに、私には人に言えないようなことは何もない。せいぜい、酒での失敗くらいだ。
頑なに心を閉ざすような重大な過去は、私のどこを探してもない。ただ単に、人を信頼するまでに時間がかかるだけ、自己開示が苦手なだけだ。
全幅の信頼をしていなくても、それなりに相手の為人がわかれば勝手に話し出す。

とは言え、無神経な人間だと自己紹介してくれるのだから、後で痛い目を見るよりはいいのかもしれないが…

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