ぼくのBL 第四十二回
星降るクリスマス
ジャングルジムの上から声が降ってきた。
「ねえ、プロデューサーさん。月の声を聞いたこと、ある?」
見上げてみると、聖の顔のとなりに満月が浮かんでいた。
彼女を知らない人が聞いたら、なにを突拍子もないことを言ってるのかと思うだろう。
でも、私はそんな彼女が好きだ。
そして、世界中の人たちにも好きになってもらいたい。
大げさではなく、そのために私は生きているといっても過言ではないのだから。
私は聖と出会った日のことを思い返していた。
*
あれは、仕事に疲れた日の帰り道のことだった。
前日に雪が降った。
東京では珍しいことだが、その雪が翌日になっても溶け残っていた。
私は今までに何度か雪道で転んだことがある。
今考えると恐ろしいことだが、ハイヒールで雪道を歩いていたのだ。
痛みを経験して私は学んだ。
ペンギンのように足をちょこちょこ出しながら、体の重心をなるべく移動させないように歩くのだ。
もちろんヒールなど言語道断だ。いくら不格好になっても、スニーカーを履くことにした。
見た目は格好悪いけれど、転んでアスファルトに腰を強打するよりマシだろう。
翌日は久しぶりの休みだから、運動がてら少し遠まわりして帰ろうと思って、知らない道を歩いていた。
寒かったけれど、張り詰めた空気が意外なほど気持ち良かった。
息の白さがおかしくなってきて、わざと大きく息を吐いてみた。
(あれ?)
ふと、遠くから女性の歌声が聞こえてくるのに気づいて足を止めた。
大きな声ではないのだが、不思議とはっきり聞こえてくる。
まるで空気の粒子に邪魔されることなく、発せられた声がそのまま周囲に伝わっているようなクリアな歌声だった。
溶け残りの雪が、周囲の雑音を消してくれていたからかもしれない。
その声には、女性というよりは、女の子のあどけないニュアンスが残っている気がした。
私は、アイドルのプロデューサーとして、これまで多くの歌声を聴いてきている。
レコーディングにも何度か立ち会った。
言ってはなんだが、プロとしての自覚はある。
その私が心を揺さぶられる歌声だったのだ。
居ても立ってもいられなくなった私は、転んでしまうかもしれない危険性を考える間もなく、気づいたら走り出していた。
この声の主を誰かに先回りして取られてしまうのではないかと焦っていたのだ。
声の主は、公園の奥にある林の中にいた。
彼女は林の奥に向かって歌っているようで、うしろ姿しか見えない。
想像していたよりも小柄で、腰に届こうとする長髪は金色だった。
顔の一部が、ほの白く周囲の風景から浮き上がっている。
(ひょっとしたら外国の女の子なのかな?)
彼女の歌の邪魔をしてはいけないと思い、息をとめて聴いていた。
讃美歌だろうか。
聞きなれぬ言葉を、美しいメロディーに乗せて歌っている。
不思議な経験だった。
歌詞は聞き取れないのに、なぜか脳裏には市井の人々の満ち足りた笑顔が浮かんできたのだ。
どれくらい時間が経っただろう。
彼女が振り向いたとき、私は完全に放心していた。
「あの……だいじょうぶですか?」
彼女が日本語を話したことよりも、気づかぬうちに目の前に立っていたことに驚いた。
夢を見ている最中にいきなり起こされたような気分だった。
実際、私は「望月聖」という夢を見ていたのかもしれない。
目の前の彼女にピントが合う。
何か言わなくてはいけないと思い、慌てて言葉を探して口に出した。
「あ……ごめん、驚かせちゃったかな? わたしなら平気だよ」
言いたいことの1%も言葉になっていなかった。
もどかしかった。
「でも……」
彼女が私の顔を指さす。
「……泣いてる」
「え、うそ?」
慌てて顔に手をやると、頬から顎の先まで、涙が伝った跡が幅広くついていた。
ハンカチを出し、慌ててその痕跡を消す。
「ごめん、知らないうちに泣いてたみたい。あなたの歌を聴いて、心の中がきれいになったんだろうな。それだけじゃない。あなたの声の向こうに、幸せそうな人たちの顔が見えたの」
先ほど言い足りなかった部分を補うように、私は早口でまくし立てた。
彼女は少し顔をうつむけ、はにかみながら胸の前で両手を組み合わせている。
数秒後、急に私の目をみつめながら彼女は言った。
「あの……ご迷惑でなければ……私の歌を、もう少し聴いていただけませんか?」
今さら最初の疑問に対する答えが浮かんできて、思わず苦笑した。
外国人なんかじゃない、純粋な日本人じゃないか。
「そう……ですよね。失礼しました」
頭の中では言葉が渋滞していたが、何を口にすればいいか分からず、ただ彼女の顔を見ていた。
誤解させてしまったかもしれない。
表情を曇らせた彼女がこの場を去ろうとする気配がしたので、急いで言葉を発した。
「ごめん! そうじゃないの。あなたの歌を聴きたい! ずっと聴いていたい! いま笑ったのはね、最初あなたのうしろ姿を見て、外国の女の子かなって思ったから。変な思い込みをした自分を笑っただけなの」
思いがけなく彼女の腕を握っていた自分に驚いたが、彼女は特に拒絶もせず、しかし心配そうな表情で私を見つめている。
「よかった……私の歌を聴きたいと言ってくれたのは、あなたが初めてです。しかも……何というか……ちゃんと伝わったみたいで」
ようやく彼女の表情に笑顔が戻った。
彼女の言わんとすることは理解できる。
この仕事も長い。自負もある。
本物かそうじゃないかを見極める耳とスキルは持っているつもりだ。
「あらためて、あなたの歌を聴かせてほしいの。お願いします」
掴んでいた彼女の腕から手を離し、祈るような気持ちで私は彼女に深々と頭を下げた。
それからの短い時間は、私が生きてきた中でも最高のひとときだった。
彼女は、まるで不思議なフィルターを通して声を発しているようだ。
音声を映像に変換する装置。
彼女の声帯から発せられた音波が、私の網膜に像を映し出す。それも、ただの映像ではない。そこに映し出される人々は、風景は、活き活きと動いている。生活している。
言葉にすると陳腐だけれど、彼女の脳内にある世界にそのまま飛び込んだような錯覚をおぼえるのだ。
こんな経験は初めてだった。
そう思ったとたん、私の心に悪魔が宿った。
(彼女を独占したい)
(他の誰にもこの才能を見せたくない)
しかし、改めて彼女を見て、私はすぐに気持ちを翻した。
そんなことを思った自分を深く恥じた。
「どう……したんですか? やっぱり私の歌が……」
「いや、ごめん。不埒なこと考えてしまった自分を責めていたところ。ねえ、改めてなんだけど、私こういう仕事をしているの」
名刺を差し出す手がいくらか震えていたのは、柄にもなく緊張していたのだろう。罪悪感もあったと思う。
受けとるために伸ばされた彼女の手の白さに、しばらく見とれていた。
「芸能事務所のプロデューサーさん……ですか。えーと、これが何か?」
上目遣いになった彼女の表情を見て、私は覚悟を決めた。
「あなたをね、スカウトしたいの。アイドルとして」
かなり驚いたのだろう。彼女はしばらく目を丸くして固まっていた。
「え……アイドル? 私が?」
しばらく時間をおいて、私はプロデューサーとしてのプロポーズの言葉を発した。
「ねえ、あなたは自分の歌を、声を、世界中に届けたいとは思わない?」
*
「どうしたの、プロデューサーさん?」
回想から我に返ると、見上げた視線の先には聖がいた。
あれから4年が経ったとは信じられない。
レコーディング、ライブ、テレビ出演など、順調にキャリアを積み重ねている。
頼もしさすら感じられるほど成長したと思う。
先ほどまで出演していたコンサートの帰り道だった。
「ちょっと寄っていきません?」と聖が先導して入ってきた公園だ。
聖はまだジャングルジムのてっぺん近くに座っている。
真冬なのにグリーンの薄いセーターと薄いマフラー、白のタイツの上はレモンイエローのショートパンツだけ。
ボア付きのスタジアムジャンパーに包まれ、腰にカイロを貼っている自分とは大違いだ。
「見てるだけでも寒いよー」
私の言葉を聞いても、聖はニコニコしてまったく意に介さない。
「私の地元はとっても寒いんですよ。東京はあったかいですね、このくらいの寒さなら平気です。それに」
聖は、夜晴れの空を見上げた。
「月や星がよく見えるから、こんな寒い夜が大好きなんです」
言われてハッとした。
寒い夜、いくら天気がよくても、空を見上げて歩くことなど何年もしたことがない。
夜だけじゃない。昼間だって、歩くときは目的地に向かうことだけが目的になって、周りの風景を楽しむことなど、しばらくしていなかったのではないか。
月明かりに照らされている聖の横顔に、私はしばらく見とれていた。
聖の口元が動いた。
か細い声が、頭と心に直接届いてくる。
例えはありきたりだけれど、まるで映画の1シーンを観ているようだった。
聖の歌が終わったところで、私は声をかけた。
「改めて、さっきのコンサート、大成功だったね。おめでとう」
夜空を見上げていた聖は、私の言葉に視線を合わせてきた。
「ありがとうございます。あんな素敵なコンサートを企画してくれて、本当に嬉しいです。ホールで聞いてくれた皆さんの笑顔が忘れられません」
聖の言うとおりだ。
舞台袖から見た客席の光景は、私も忘れられそうにない。
*
「明日は、キリスト教ではイエス様が生まれた、とてもおめでたい日です。
今夜、恋人と過ごす方もいるでしょう。ご家族と一緒に過ごされる方もいると思います。でもその一方で、一人で孤独に過ごされる方、お仕事中の方、体調を崩されている方、悲しみに満ちている方、そういった人たちがいることも現実です。
少し大げさかもしれませんが、みなさんの疲れた心、傷ついた心に、私の声で光を当て、温めることが私の使命だと思っています。
どうか短い間だけでも、幸せな気持ちになってもらえますように」
ひと息に言い切った聖は、ゆっくりと頭を下げてから歌い出した。
パイプオルガンの繊細かつ荘厳な音色。
それに聖の歌声が合わさると、たった2人で発しているとは思えないほど重層的なハーモニーが生まれた。
このライブの選曲は聖自身が行った。
初めはパイプオルガンのソロで2曲、ヘンデルの「ラルゴ」に続き、バッハの「前奏曲とフーガ イ短調」が披露された。
満を持して登場した聖が歌ったのは、ハイドン作曲のミサ曲、「sanctus」だ。
聖なるかな、という意味のこの曲は元来四声合唱だが、聖が歌った部分はソプラノのパートだった。
「天も地もあなたの栄光に満ちています。いと高きところに。いま救いたまえ」
キリスト教にもイエス様にもラテン語にも馴染みのない私だが、聖が歌っているという、ただそれだけで魂が浄化されていくような錯覚をおぼえるから不思議なものだ。
その後、数曲の讃美歌を挟んで、最後は「silent night(きよしこの夜)」。
パイプオルガンの伴奏なしで、聖はアカペラで歌い上げた。
聖の歌声はまるで、空の高みを自由に滑空するヒバリのようだった。
聴いている人間は聖の声を通して、上空から下界を見渡しているような錯覚をおぼえたはずだ。
この当時はまだ珍しい試みだったが、この夜のライブは同時にネットで配信をしていた。
専用の機材を買うほどの覚悟もなかったので、上司に決裁をもらって自分のスマートフォンを使い、簡易的な配信を行ったのだ。
準備期間も短かったため過度の期待はしていなかったが、ライブが終わったあとにログを振り返ってみたら、ピーク時には何と視聴者が1万人を超えていたらしい。
驚いたなんてものではない。
コンサート後に慌てて確認したところ、同じ事務所の八神マキノが宣伝を買って出てくれたとのことだった。
一つずつ確実にシンデレラの階段を昇っている聖は、私から見ると少し遠い存在になってしまった気がする。
でも、それでいいのだ。
望月聖を、世界中の人に知ってもらいたい。
聖の歌を、一人でも多くの人に聴いてもらいたい。
それがプロデューサーである私の使命なのだから。
「ねえ、聖の話、もっと聞かせて」
今日くらいは許されるだろうと思って甘えてみた。
「じゃあ、私が生まれたときのことをお話ししましょうか」
改まってこういう話を聞いたことがなかった私は、どんな話が飛び出すのだろうと期待に胸をふくらませた。
「予定日はもっとあと、元日くらいだったみたいなんですけど、ちょっと予定が早まったそうなんです。
名前は生まれてからゆっくり考えようとしてたけど、生まれたのがイエス様と同じ日だったんで、お母さんもお父さんも「聖」って名前がすぐ浮かんだそうです。
思いついた名前を二人でいっせいに口にしたら、どちらも同じだったので、大笑いしながら泣いてたって聞いたことあります」
「いい話だね」
しみじみしていたら、聖はなおも口を開いた。
「お母さんが生まれたのもね、私と同じ日なんです」
「へえ、珍しいね」
「そうですよね。それでね、お母さんが生まれた1977年の12月25日は、今日と同じ満月だったんですって」
(え?)
慌てて空を見上げた。
あった。
天空に、何よりも明るく光る球体。
南の空に、煌々と存在感を誇示している。
今夜は満月だったのか。どうりで明るいはずだ。
携帯の画面を見た。
日付が変わっていた。
クリスマス当日、12月25日になったばかりだった。
「うっかりしてた、ごめんね。誕生日おめでとう、聖」
少し立ち位置を変えたら、満月が聖の頭のうしろに隠れた。
バックライトが当たっているかのように、聖の全身の輪郭が中空に浮かびあがる。
神々しかった。
「ありがとうございます。地元にいた頃は、私の誕生日は冬休みになっちゃってたから、友達にお祝いされたことあんまりないんですよ。
毎年家族にお祝いしてもらっていましたけど、こうやってプロデューサーさんにお祝いしてもらう誕生日も、すごく嬉しいです」
「こちらこそ、ありがとう」
聖をひとり占めしていると思うと、なんだか申し訳ない気分になってくる。
少し恥ずかしくなったので話題を変えてみた。
「私さ、天体とか詳しくないんだけど、クリスマスが毎年満月ってことは、ないんだよね?」
「クリスマスが満月になるのは、38年ぶり。お母さんが生まれた日以来だそうです」
改めて空を見上げた。
きれいな真円をみせている満月が、私たちを照らしている。
嬉しそうに語る聖を見た。
これはきっと、神様が私にくれたプレゼントだ。
出会った時と同じ、二人きり。
こんな贅沢な時間を独り占めしていいのだろうか。
背徳感をおぼえるほどの感動が胸を震わせつづけていた。
雲ひとつない快晴の夜空は、寒さのせいか透明度が高い気がする。
東京でもこんなにはっきりと月や星が見えることに、今さらながら驚いていた。
仕事が忙しいとか、彼氏ができないとか、担当アイドルの売り込みが上手くいかなかったとか。
普段の生活で心を蝕んでいる、そんな些細なことが、どうでもいいと思える。
聖には教わることだらけだ。
東京生まれの私は、ホワイトクリスマスに根拠のない憧れを抱いていた。
「ねえ聖ちゃん、雪ってどう思う?」
「どうって、私の故郷は雪が多いところだから……見慣れちゃってますね。雪かきが大変だって思ったり、怪我をする人がいなければいいなって思ったり」
「そっか。雪に憧れを抱いているのは、降らない地方の人間のわがままなのかな」
「でも、雪が特別きれいに見える時もありますよ。クリスマス、大晦日、新年。そうした行事じゃなくても、穏やかな景色が雪に埋もれているのを見ると、心が澄んでくるような気がします」
「わかる気がする」
私も聖にならって、ふたたび空を見上げた。
満月は南の空に浮かんで下界を照らしている。
聖の言葉から連想される景色が脳裏に広がった。
雪に閉ざされた田舎の夜の風景。
月光に照らされて、視界全体が白く光っている。
画面の手前には、向こうの山を見ている聖が立っている。
聖は、たぶん歌っている。
顔は見えないけれど、向こう側の景色に向かって澄んだ美しい歌声を上げている。
歌声は大気を伝って同心円状に拡がっていく。
そこから連想される情景も頭に浮かんできた。
小さな炬燵に入った家族の笑顔。
みんなで鍋をつついている。
子供の笑い声につられて、親たちも笑顔になっている。
映像は次々と切り替わっていく。
世の中には様々な人がいる。
病院のベッドに横たわる人。
道路工事で交通整理をしている人。
恋人に振られて悲しんでいるひと。
今まさに息を引き取ろうとする人。
この世に生を享け、元気な泣き声を上げる赤ちゃん。
ただ、この幻影の中では、聖の歌声を浴びた人はみな一様に穏やかな表情に変わっていった。
届けたい、と思った。
幸せな人にも。
そうでない人にも。
世界中すべての人に。
*
幸せを感じている人には、もっと大きな幸せが降り積もりますように。
悲しみ、苦しみを感じている人たちには、ほんのひとときでもいい、一瞬でもいいから、いま置かれている過酷な状況を忘れられますように。
そして願わくは、この歌声を浴びた人たち全員が、よりよい未来が迎えられますように。
メリークリスマス!
そして、よいお年を!
*
2015年12月25日は満月のクリスマスだった。
次は19年後、2034年だという。
【著者註】本作品は、タイトル『星降るクリスマス』と同名のモバマスイベント、およびカード「聖なる乙女」からインスパイアされた物語です
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