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ぼくのBL 第三十五回

 三十五という数字から連想するのは、直木賞の名前の由来になっている直木三十五だ。
 不勉強で申し訳ないけれど、彼の著作は読んだことがない。早世した彼のために菊池寛が「直木三十五賞」を創設したのは、北村薫『六の宮の姫君』で読んだ気がする。

 直木賞は、ぼくが子供の頃は今のようにエンターテインメント全開の作品には与えられていなかった気がする。気がするばかりで気持ちわるいので、ちょっと調べますね。

 気のせいでした。
 なんせ、連城三紀彦が『恋文』で受賞してるのは1984年(第91回)ですもの。
 今や『容疑者Xの献身』で東野圭吾が受賞するなど、本格ミステリも直木賞の主役になっている感がありますが、『恋文』は当時、純文学って言われてたんですよ。だいたいの人が騙されてたけど。
 後年になっていろんな書評が出てきましたが、連城三紀彦の作品は純文学の皮を被ったミステリなんですよね、これは実感としてあります。
 というのも、連城作品はほとんどが男女の情愛を主軸にした物語、いわばラブストーリーなんですが、どの作品にも大なり小なりの驚きが仕込まれているのです。
 恋愛の機微がそのままミステリのサプライズとして機能している。
 この文脈は連城ミステリを1作でも読んだ人なら理解してもらえると思います。
 それがとんでもない方向に突き抜けてしまったのが世評も高い「戻り川心中」です。
 これがですね、ネタバレが怖いので抽象的な書き方になっちゃうんですけど、「文学とは何か」「作品と作家の関係とは」というような高次元のテーマに行きついてしまうんですよ。こう書くと(え、難しそう……)と敬遠されてしまうかもしれませんが、連城三紀彦の文体は恐ろしく流麗で美しいんですよ。
 では悪い癖を発動させて引用しましょう。

 時間は砂時計の金色の砂となって、ゆっくりと流れおちていった。康子は十八になり、二か月遅れて僕も十八になろうとしていた。その年齢で考える人生とか幸福とかの言葉は、書物の中の活字のように生硬で、ぎこちなかったけれど、ひとはこんな風に遠い日の記念写真のようにしか幸福を感じとることができず、人はまたこんな取り返しのつかない思い出のようにしか誰かを愛することができないのだろうと思い、だからこそ今、僕は人生の一番幸福な瞬間にいるのだし、今までもこんな幸福はなかったのだし、今後も訪れることはないのだろうと考えたのだった。たぶん、ぎこちないまま、あの時の僕は、今よりずっと、人生や幸福の本当の意味を知っていたのだろう。あれから十年が過ぎ去った今も、時々こんな風にあの時のことを思い出しながら、これもまだ長く続く自分の人生の時間全部と、あの一瞬、正確にいえば一分近い時間を交換してもいいと思うことがある。

「落葉遊び」(新潮文庫『たそがれ色の微笑』収録)  連城三紀彦

 はぁ……。
 美しすぎてため息しか出ませんよ。ほんと、こんな文章が書けるようになりたいものです。

 話はどんどん脱線していきます。
 ぼくには本を読むにあたってどうしても外せない基準があって、それは「文体が合わない作家の本はあと回し」というものです。
 人生は有限ですし、ぼくはあと3回くらい転生しないと読み切れないくらいの本を所持してしまっているので、せっかく読むならば心地よく世界に浸れる作品がいいな、と思ってしまうのです。

 唐突ですが、ぼくが好きな文体の作家を列挙します。いつか詳しく語りたいと思っていますが。

  • 連城三紀彦

  • 志水辰夫

  • 津原泰水

  • 佐藤正午

  • 奥泉光

  • 北村薫

  • 森博嗣


 それでは、また。

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