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オリエンタルとは?:ナポレオンとエジプト

以前取り上げたナポレオン。

ナポレオンがエジプトに攻め込んだ!というのはかなり多くの人がご存知かもしれません。

ちなみに…その時に多くの宝物品(含むミーラ)を取っていったり、スフィンクスに砲弾で穴をあけた、というのは有名なエピソードかもしれませんね。

当時、司令であったナポレオンは、イギリスに攻め込むべし!総裁政府に指令を受けたものの、海軍は貧弱なフランスがイギリスに攻め込めこめるわけがない・・・というわけで、植民地化されたインドとの交易地点として重要性が増しているエジプトに攻め込もう!ということで実行されたのがエジプト遠征でした。

当時のエジプトはオスマン帝国の支配下にあったわけですが・・・

イギリスがインドへの植民地支配を強めるにつれ、その中継地としてエジプトの位置が重要となった。ナポレオンは、イギリスの進出をくじくために1798年みずから3万の兵を率いてエジプトへ遠征した。エジプトは、オスマン帝国の重要な税収源であり中央から派遣する総督の支配下にあったが、17世紀中には国土の多くは徴税請負(イルティザーム)にだされ、マムルーク軍人がこれを握り、政治の実権をめぐって総督とマムルーク軍人間の権力争いが続いていた。ナポレオンは、このような混乱状態を利用し、7月にピラミッドの戦いでマムルーク軍を撃破し、カイロに入城した。

エジプトは、その後、イギリス、フランスによって保護国化されたりとなかなか難しい時代が続きます。

ともあれ、ナポレオンが、エジプトに遠征したのはオリエントへ憧れがあったから、とも言われているようです。

ナポレオンは好奇心旺盛な人だったようです。

ナポレオンのオリエンへの憧れ、が半端ない!ということが分かりますね。

エジプトがオリエント??

というと日本人からして微妙かもしれません。ともあれ、エジプトは、ヨーロッパにとって身近なオリエントを感じさせる存在であり、魅惑的な場所であったようです。そしてこの遠征では調査も行われました。

エジプト誌の編纂ですね。

1-23. Paris, 1809-22.(エジプト誌)
この本は1798年から翌年にかけてナポレオンがフランス軍を指揮しておこなったエジプト遠征における調査結果をまとめたものだ。
遠征に当たり、彼はフランス学士院に協力を求める。その結果、エジプトの歴史、地理、博物その他に関するものを完全に記録するための学者、製図家、画家など総勢175人の調査団が随行することになった。
その調査結果を一・博物、二・現況、三・遺物の三部にまとめたものが本書のテキスト9冊、図版14冊の合計23冊。作成に約200人の芸術家が参加したとあって超大型本の図版には実に3000点以上の絵が掲載された。題材は歴史的建造物から動植物、景色、さらには住民の習俗、商工農業の様子や日用品にまで及んでいる。特にスカラベや副葬品などの遺物はパリ博物館長ドノン(Denon,Dominique Vivant,Baron)を中心に、写実的かつ精密に描かれた銅版画であり、大変素晴らしい。 またエジプトのヒエログリフの解読に大きく寄与した有名なロゼッタ石の模写もこの中に含まれている。
この本の影響は大きく、それまで神秘のベールに包まれていた古代エジプト文明を明らかにし、近代エジプト学を誕生させるきっかけになっただけでなく、俗に「エジプト熱」といわれるブームが到来。ヨーロッパではエジプト回帰様式という新しい装飾様式が誕生するなどさまざまな分野に影響を与えた。

ナポレオンがここまでエジプトについて調べるように指示したのは、これが単なる遠征ではなく、「オリエントを探求したい!」という意味合いもあったことが分かると思います。

ナポレオは、欲深い征服者のような一面もありながら、思慮深い司令官であり、そして好奇心旺盛な少年のような人だったと言えると思います。

ナポレオンは不思議な人ですね。

オチを付けるとその後、イギリスに逆襲にあい、ナポレオンは敵前逃亡(全体の兵を置き去りにして帰国しました)しました。その時、フランスでは政変が起こり、第一執政の座に就くわけです。

エジプトの重要性は、スエズ運河の開通を持ってますます増すわけですが、スエズ運河の開通前であってもエジプトの重要性は変わりません。

エジプトを経由してインドに行く方が、はるかに早くインドへと行くことが出来ます。スエズ運河開通(1869年)前ですから、当然積み荷を一旦降ろして船で行くことになると思います。

アフリカ、アジア、ヨーロッパを繋ぐ地点としての重要性としてのエジプトの重要性。そして、それだけに経済的、文化的な中継地点でもあったといえます。

ともあれ、このナポレオンの遠征が、「西洋における知識の組織体(ボディー)としてのオリエントは近代化されることになった。」

そうエドワード・W・サイードの「オリエンタリズム」上、で書かれています。


ナポレオンは、ヨーロッパの国の形を変えただけではなく、オリエント研究を進める貢献もしたわけですね。意図せざる結果としてもたらした彼の歴史的な役割は、面白いです。



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