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困難に出会うたびに、自分を思い知る


普段、自分がどういう人間か、ということを意識することは少ない。
私もゼロではないが、「他の人からどう見られているか」を気にしている人の方が多いかもしれない。

しかし、一旦困難に出会うと、自分がどんな人間かを思い知ることになると感じている。

思い返せば、最初の困難は小学校4年生の時のクラス女子全員が、私と突然口を聞かなくなったことだった。
その前日、女子ボスを決選投票で破って学級委員に選ばれていた。
それが原因であることは、私にもすぐにわかった。私は立候補もしていないが、推薦され、決選投票までもつれた。完全な被害者だった。

自分の弱さ、一方で負けん気の強さ、も知った。
人の弱さ、人の身勝手さも知った。大人の狡さも知った。
家族がわかってくれていればそれでいい、ということも知った。
自分だけではなく、男子としか話さず、でも学校を休まず行き続けた中で、冷静に周囲を見ることができた。あれが私の人に対する見方の原点かもしれない。

追い続けた夢が、自分の道ではないと知った時も、自分を思い知った。
自立して生きるということのために、音楽をやっていたが、それは母の夢や自由を求める自分を映し出していただけで、だから違和感を感じ始めたのだと。

さらに大学入学後に、生き方を探すためにあらゆる人のエッセイを読み始め、選択肢が増えていったことも、大きかったのだろう。
自分の視野の狭さ、続けることを捨てる怖さ、でも情熱を注ぎ続けることができないことは、最終的に私は続けられないとわかった。

その後も度々困難に出会うが、これらは今後小説の中の一部に書いていきたいと思っているくらい、壮絶な部類に入ると思っている。

最近では、コロナによって仕事と収入が激減した時も、たったそれだけのことで、少なくとも今日食べることに困っているわけではなかったのに、
どん底まで落ちる、自分の小ささを知った。
器の大きな人間になりたい。
そう思って、世界一周の旅に出た。
器が少しでも大きくなったのか、は不明だが、考え方が変化したことは確かに
感じる。

困難に出会うと自分の弱さや小ささ、一言で言えば器を知ることになる。
しかし、それがきっかけで少しづつ器を大きくすることも可能だ、
と信じてもいる。
困難はない方がいいのだけど、(もう、いいわって感じです、正直)次に困難が来たときに、少しは自分の器が大きくて、それを受け止める力があることを願うしかない。
器の大きさは、思考の柔軟性とイコールかもしれない、と思っているので、普段から振り幅を広げて、思考する遊びを取り入れておきたい。

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