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人の評価で動かない


昔から、群れる事が苦手だった。

一人二人の友達と一緒にいるのは良いが、それが5人、6人、10人なんてなると、たちまち無口になっていた気がする。

その中で、リーダーシップをとる人がいたら、一応したがっているフリはするけど、本当に共感しない限りは、「表向き合わせているだけ」で「心は売らない」と
思ってきた。


小学生の頃から、先生に対してもそうだった。

私は決していわゆる「優等生」ではない。
先生のお気に入りになったことは一度もない。
いわゆる「いい子」ではなかった。

心の中では、「大人なんてちょろい」と思っていた。

だって、成績がよければたいていのことは許してもらえるし、目を瞑ってもらえる。


好きなアーテイストがラジオ局に来ると友人から聞いて、学校を仮病で早退すると
決め、先生に「お腹が痛いのが止まらないんです」と演技をしていったら、「そうか、気をつけて帰れよ」と全く疑わずに早退できたし、親にも連絡はされていない。

(今でも親は知らないだろう)

そんな経験をすれば、表向きだけ合わせて、心は売らない、という高校生になる。


ただ、先生の「恐怖」になったことはあるかもしれない。


アメリカ留学から戻って、英語の授業を受けていた時、日本語英語の先生の授業の際に、
「ちょっと読んでみなさい」と言われ、全く人の評価など気にせずバリバリのアメリカ英語で読んだら、次の授業から先生がテープレコーダー持参で授業を始めた。


それも「ふーん」という感じだった。
全く可愛げのない生徒だった。

その可愛げのなさは今も続いている。

多分いわゆる「いい人」が苦手だ。
みんなに評価され、みんなから好かれている、そんな人が苦手だ。
どこかで「胡散臭い」と思っているのかもしれない。


こんなこと書いたら、「なんて皮肉れ者」と思われるだろうけど、まあそれが自分だから仕方がない。


だから生徒さんでも、自分を持っている人、どこか譲れないものを持っている人は
偉いな、と思う。

いい子は、「いい子いい子どうでもいい子はいらない」と、エアライン採用担当者が言った時に、「本当にそうだ」と思ったが、実際に面接でも失敗するケースが多いように思う。


もちろんどんな性格がいいのか

どんな人が好きなのか


は、人それぞれ。


私もいつか、人の評価で動くようになるかもしれない。

でも、今のところ「人の評価」つまり、「あの人がいいって言ってるから、きっといい人だよ」というのには、動かされない。

自分が納得して評価したい、という気持ちは今でも変わらない。
だから、大勢のファンがいる人っていうのは、芸能人でもない限り私はほぼ興味がない。
人気がある人で興味があるとしたら、本当に自分が良い、と自分なりの理由がちゃんと言える場合だけだ。


こんな風だから、知り合いは多いが、友人は少ないし、あまり人とつるまないし、
でも困っていることはあまりないからこれでいいのだと思っている。

(勝手に自己容認)

結局人に操られるのが、何より嫌なんだ、と思う。

心くらいは自由でいたいし、こんな人間もいる、ということは自分を見ているとわかるから、そんな人がいたとしても、驚きはしない。

自分の好きな人くらい、自分で選びたいんだな、
自分の気持ちに正直に。


まあ、私みたいな人が増えたら、ファンビジネスはきっと成り立たないけどね。

天邪鬼より


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