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40年ぶりの思い出の場所


この日は、仕事終わりにある計画をしていた。
仕事と言っても、この日は午前中で終了。その後は一切予定を入れていないから、自由だ。

ずっと前から、「行きたいな」と思っていたしチャンスも何度もあった。
すぐ近くまで仕事で行ったこともある。
それでも、何となく「いつか行こう」と思って先延ばしにしてきた。

でも、今日は絶対に行こうと思っていた。

その理由は、父の死だ。

まだ父が死んだなんて信じられないけど、 もうすでに百箇日になる。
その百箇日の法要が近いので、「行こう」という気持ちになったのかも知れない。
その亡くなった父が、生前連れて行ってくれ、と2回ほど私に頼んだことがある場所だ。

そこは、父の転勤で家族全員で3年余り住んでいた場所だ。
実家からは、車で1時間半ほどのところだ。

そこに連れて行ってくれ、と10年近く前に急に言い出したことがあった。

「もう随分変わっていると思うよ」と言ったが、「それでもいい。行きたい」と言ったのだ。
歩くのが大変になっていた父を車で連れて行こうと思ったが、母が認知症の症状が出ている父は連れて行っても覚えてないから、良いよ、と言ったのだ。

もしかすると、私に気を遣って母は「良いよ」と言ったのかも知れない。
でも、ずっと私の心に連れて行ってあげればよかったという気持ちが残っていて、「行かなきゃ」と思えたのだ。

ちょうど今日の仕事先から案外近いので、のんびりとその私が小学校3年生から6年生までいた街を訪ねた。

最寄駅で降りる。
ほぼ駅は変わっていない。


変わらない駅

商店街の方をチラッと振り向くと、あの頃母と一緒に商店街に行った思い出が浮かぶ。
その反対方向に、私たちが住んでいた社宅があった。五階建てのいわゆる「団地」で、エレベーターのない5階に私たちの家はあった。
当時は小学生なので、その階段の上り下りを気にしたことはないが、母はきっと買い物帰り大変だっただろうな、と想像する。

この場所には、その後中学生になった時に2度ほど初恋の人に会いにきたことがある、懐かしい場所だ。

歩いていると、道は少し変わっていたが、中学生以来の記憶をたどって歩き続ける。
当時小学生の頃には駅から案外遠いと思っていたが、今日歩いてみると案外近かった。
そして、右横に突然広い土地が現れた。

「ここだ」



この奥に社宅があった 元々ここは空き地だった

当時は、入口から社宅までがかなり大きな空き地があったのだが、今はその空き地にも隙間を埋めるように、マンションがいくつも建っていた。
「本当にここだよな」
と確認するように、さらに道路を先に進む。

すると、右手にあった。


大学名などは消しています


実は国立大学の男子寮が、社宅の裏に当時からあったのだ。この寮もなくなっていたら、きっと以前の社宅の場所に自信が持てなかったが、「間違いない」と確認した。

この大学の学祭の際には、「寮祭」が行われ、地域住人たちは敷地内に入り、そのお祭りを一緒に楽しんでいた。
その中の一つに「飛び入りのど自慢」があり、これに父から無理やり妹と一緒に出場させられたことが二回ほどある。

「嫌だ」「恥ずかしい」「下手やし」と言ってごねる私に父は、「なーんや、つまらんのう」と、馬鹿にしたように言った。
それが悔しくて「わかった。出る」と言って出たのだ。今考えれば、負けず嫌いの私の性格を知っていて、父はそんなことを言ったのかも知れない。
「人前で何かできんと、大物にはなれんぞ」と、大物にはなれていないけど、すごく子供に大きな期待をしている父だった。

実際に歌うと、子供が出演していることは珍しく、観客からも、大学生のお兄ちゃんたちからもたくさん応援してもらって、たくさんの拍手をもらって、褒められた。
やってみて初めてわかった快感だった。

子供に誰も多くを期待していない。ただ、歌うだけで拍手をもらえるんだ、と今ならわかるが、あの原体験はその後の私たち姉妹に何らかの影響を与えたことは間違いない。

寮が健在であることを確認し、社宅があった場所が明確になったので、少し中に入ってみる。
当時は空き地があって、その奥に二つの団地があったのだが、今は全ての敷地に6つほどのマンションが建ち、裏にあった田んぼも全て住宅地になっていた。
面影はないようで、ある。

社宅の敷地内にあった公園で毎日毎日、日が暮れるまで遊んでいたことがわーっと蘇った。
ザリガニも取れた。
高度成長時代だった日本で小学生時代を過ごせたのは、幸せだったな、とふと思った。
父もまだ当時40歳前の、バリバリの働き盛りだった頃だ。
一番輝いていた時代だったのだろう。だから、連れて行ってくれと私に言ったのだ。
またしても悔やまれる。

覚えていなくても良いから、その瞬間「おーここやったな」と言って欲しかった。
後悔先に立たず。


すっかり秋

その後、当時通っていた小学校を目指した。
流石に小学校までの道は、道が変化していてわからなかったので、マップを使いながら行ってみた。
途中に、古めかしいうどん屋さんがあった。
このうどん屋さんの名前に見覚えがある。開店していたので、入ってみる。
お客さんは誰もいない。カウンターに座って、ごぼう天うどんを頼む。
(福岡の名物)


天ぷらを別々に出してくれた


店主は私より若い。果たして昔のことを聞いても、あまりわからないかも知れない。
そう思って、話をするのはやめた。今度行ったら、話をしてみよう。

私が通っていた小学校は、吹奏楽部で有名だった
3年生でこの学校に転校してきた私は、この吹奏楽部の顧問の先生のクラスとなった。
音楽の先生だった担任は、音楽の授業が抜群にうまかった。
誰でも音楽の楽しさに引き込まれる授業をしてくれた。流れに乗って、吹奏楽部に入部した。

そして、この先生に母が相談しこの先生の友人であるドラムの先生を紹介してもらい、私はドラムを習い始めた。小学校4年生のことだ。

「足が届いたら、習いに来ていいよ」

とドラムの先生が言い、ドラムの椅子に座ってみると、クラスで中位の身長だった私は足が届いた。
こうして、私は22歳までドラムを続けることになった。

この小学校の吹奏楽部は、県大会でいつも優勝している学校だった。小学校で吹奏楽部があるのもすごいが(市立小学校だ)毎年優勝するのもすごい。
当然ながら、練習は毎日。土曜日も午後から練習。
大会の前には、日曜も、祝日も練習だ。
夜20時ごろまで練習の時には、親が迎えに来る。
お腹が空くので、保護者の人たちが出前を頼んでくれ、食べたのが多分ここのうどんだ。
うどんとおにぎり。
それを食べてまた練習する。

夏休みには、九州交響楽団の指揮者まで指導に来るほどの有名校だった。

先生は超スパルタだ。クラスの授業の時は優しいが、吹奏楽部になると顔つきが変わる。
何度も、指揮棒が私のところに飛んできた。
私の担当は打楽器。テインパニーまで叩いていた。

小学校4年生で、県大会準優勝。小学校5年生で県大会優勝し、西日本大会に出場し銀賞、小学校6年生の時も同じ結果だった。保護者も一緒にみんなで大阪まで行った。

思い出が溢れるほどある、3年余りの小学校生活を過ごした小学校は、校舎の建て方も変わっておらず、当時広いと思っていたグランドは案外小さかった。
毎日遊んだ鉄棒も、当時のままのはずはないけど、当時のままのように場所も同じだった。
懐かしさが、一気に押し寄せてくる。


懐かしい小学校

スタバも、それ以外のカフェも何もない街だけど、「ここなら住める」と、懐かしさに惹かれて思った。
もしかすると、そのうちこの近辺に住んでいるかも知れない。
そんなことを思いながら、「お父さん、ようやくこれたね」
と空にいる父につぶやきながら、小学校を後にした。

行ってよかった。

今日撮影してきた写真は、百箇日法要の時に、供えよう。

お父さん本当に、ありがとう。

お父さんのおかげで今の私があります。


最後に

思い出は強烈です。

思い出は泣けます。

でも、行ってよかったです。

今度は母が元気なうちに、母を連れて行こうと思っています。

ご両親がご健在な方は、できることは是非悔いのないようにしてあげてください。

あっという間に、40年前にタイムスリップしました。
思い出に、ググッと引き込まれます。忘れていた多くのことが、よみがえります。
心の奥にしまっていた感情が、一気に溢れ出てきました。
思い出の街を歩いているときには、一切涙は出なかったのに、この文章を書きながら涙が止まりませんでした。
このタイミングで、行けたことに感謝です。

長文にも関わらず、最後までお付き合い頂きありがとうございました。



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