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人の好き嫌いがない理由



考えてみれば、人の好き嫌いがほとんどないことに気づいた。
その証拠に、人の悪口、陰口はほぼ言ったことがない。
何時ごろからかと言われると、記憶にないくらい昔からのように思う。

幼い頃は、気に入らなければ殴ってたし、ケンカで勝ってきた。
悪口より、力でねじ伏せてたようだ(余計にひどい。暴力反対!)


こんなこと書いて、「自慢か!」と思われるかも知れないが、全く違う。


「人にあまり興味がない」
「人の悪口を言ってる自分が、落ちていくような気がする」
と言う、めちゃくちゃ自分勝手な理由から、人の悪口を言わないだけなのだ。


一方で、「人間観察」は大好きだ。


「人のことはどうでも良いのに、観察は好き」
という一見矛盾したものが、私の中では成立している。

つまり、「人とは付き合わないけど、研究はする」
ということなのだと思う。


自分で小説は書かないけど、評論家である

とか

自分は政治家じゃないのに、政治評論家である

みたいな。

(例えが違う、かも知れないが)


人が好きなのではなく、興味の対象ではある、ということのようだ。

興味の対象に対して、一つ一つ好きも嫌いもない。
一人一人は、サンプルであり、研究事例であり、自分が付き合うかどうか、つまり遠くから、冷静に観察するだけなので、好き嫌いは存在しないのだ。

もちろん自分と似てるなとか

この人面白いな

というのはあるが、
びっくりするような非常識な人に出会っても、驚きはするが、
珍しいサンプルに出会えたことは間違いないので、分析するが、近づかない。

こんな「変人気質」になると、人の悪口なんて言う発想自体がなくなるようだ。

Twitterなどで、
「絶対おすすめ」
「これやらない人、マジでおかしい」
「こんなことを言う人許せない」

と言っているのを見ると、「人に近づきすぎ」と思ってしまう。


余計なお世話、と言う言葉があるが、まさにそれ。

人との自分との境界線をしっかりと引いていれば、
このようなツイートはなくなるだろう。

もちろん実害があった場合は、事務的に淡々と対処すればいいし、
弁護士が必要なら、弁護士を立てれば良いし、他に解決できる専門家に頼めばいい。
当然その時にはもちろん怒るし、驚くし、慌てることもある。

でも、ツイートしても解決にはならないし、賛同を得てYahooニュースに取り上げられれば、大きな裁判には少しは有利になるのかも知れないけど、そんなことは稀なので、Twitterには書かない。
(そんな大きな事件は、起きてないけど)


きっと一時の憂さ晴らし?なのだろうけど、無駄なのになーと思う。

ここまで書いてて、
「これ自体が、人の悪口じゃないの?」
とふと気づいた。


そうかも。


ただ、個人の悪口ではなく、現象への感想だと、自分では勝手に思っている。


人間観察と分析は、ある意味私の趣味のようなもので、いつでも対象者がいれば
自然と自動的に分析を開始している。

そして、正解はわからないが、仮説を立てることが好きなので、その仮説を集めて、面接指導などで役立てることもある。

全く役立ててないこともある。

それで良い。だって趣味だから。

例えば、すごく非常識な人がいたら、「どうしたらこのような人が出来上がるのか」を考える。

その人と話せるのであれば、いろいろと話のピースをつなぎ合わせて、仮説を検証する。
そして、心ひそかにその仮説が当たっていた場合、心の中でガッツポーズし、
アドレナリンがドバーッと出て、満足する。

まあ、大した変人だ(笑)


今ここまで書いていて、一番心配なのは
「私が会いたいと思っているのに、会ってくれる人が減るのではないか」
と言うことだ。


この変人気質を暴露したのは、この投稿をお気に入りのホテルで書いたからだ。

いつもと違う環境で仕事をすると、違う自分がひょいと顔を出す。
いいのか悪いのかわからないけど、自分でこんな自分が嫌いではない。(最後は結局自慢だったかも・・・)


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