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求めよ、さらば与えられん


ミッション系の大学に通っていたため、必修科目に「キリスト教概論」
があった。
牧師の人が先生だったのだと記憶しているが、テキストは聖書。
残念ながらそれは、どこかになくなってしまって私の手元にはない。

この講義が案外好きで、ほぼ休まずに出席していた。
10代後半は、「生き方探し」のような時代でそのヒントとなる気がしていたのだろう。

私も私の実家も全くキリスト教とは関係がないのだけど、中学生の頃友人が毎週日曜日に「教会に通っている」というのを聞いて、なんだかかっこいいなーと言う、ミーハーな理由で、ついて行ったこともある。
やはり牧師さんのお話を聞いて、お小遣いの中から50円とか100円とか寄付したことも覚えている。

「人の話を聞くのが好き」だったのだと思う。

それでもキリスト教信者になるというのは、幼いながらもなんだか違う気がして、そのうち通うのをやめてしまった。

そのキリスト教の教えの中には、いくつもの印象深い言葉がある。
おそらく「隣人を愛せよ」「人はパンのみにいくるにあらず」などは、聞いたことがあるかもしれない。

その中に、「求めよ、さらば与えられん」というのがあった。
この解釈を講義で受けたのかは覚えていないが、実際「ほんとかなー」と思っていた。
もしこれが事実なら、世の中のみんなの悩みはなくなるはずだからだ。

お金が欲しい人にお金が与えられ、仕事が欲しい人に仕事が与えられ、健康が欲しい人に健康が与えられるはずだ。

実際にはそんなにうまくはいっていない。

それなのに今朝この言葉を思い出したのは、ここしばらく来年からの目標のことばかり考えていたら、それに必要な情報やアイデイアが降ってきたからだ。
具体的には、昨晩読んだ本で自分の覚悟を確認し、今朝のウオーキングで「だったらこれをやってみたら」と言われているくらいのアイデイアが来たのだ。

この一連の流れをどう表現したらいいのだろうか、と思った時に
「求めよ、さらば与えられん」が出てきたのだった。

ただ「与えられるもの」というのは、直接的なことではなく、欲しいものが手に入る方法や、アイデイアだったりするのではないか、と思っている。
いくら求めても、願っているだけではダメで、実際に自分で動きなさいよ、ということがセットなような気がしている。

お金が欲しい🟰宝くじを買う
という人もいるだろうが、宝くじを買う、という行動をしなければ、当たらないからだ。

大して勉強もしていないのに、偉そうなことは言えないが、人間の力は人間の力だけではない部分があるとは、常々感じてきた。
そして昨晩から今朝の一連の出来事で、この「仕組み」を理解した気がしている。
凡人は経験によってのみ学ぶ、と常々思っていたが、教えを実感できて初めて納得している。
だから凡人なのだけど。

年末も押し迫ってきたが、年末の大掃除はとっくに終わっていたのに、そのヒントを得た直後、さらに書類整理をして、「立ってパソコンに向かえる環境」を整えた。
ふっと思い立って、書類の整理、収納場所などを次々に考え付き、サイズなど全てがドンピシャで、ピッタリ、まるで以前からその配置だったかのように収まった。

これも「求めよ、さらば与えられん」効果に違いない。

*年の瀬の挨拶をする方が、この時期増えていますが、私は修行中の身ゆえ、お正月も毎日休まず書き続けます。宣言させてください。

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