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2人の生徒の選択をめぐって~自己理解ができれば必要な配慮を求めることができるか~

                          植草学園短期大学
                          教授  堀 彰人
 
 全般的な知的な能力には問題がなく、ある特定領域に顕著な苦手さがある学習障害の代表的なものにディスレクシア(発達性読み書き障害)がある。ディスレクシアのある二人の生徒のエピソードから、自分に必要な支援や配慮を受けるために必要なことを考えてみたい。
 
 障害者差別解消法の制定より随分前のことであるが、一人の生徒(Aさんとしよう)が定期試験を前に、「先生方に配慮をお願いしてみようか…」と考えた。Aさんは、漢字にルビをふることで文章を読んで理解しやすくなる。そこで、定期試験でルビをふった問題を用意してもらえるよう各教科の教員室を訪ねて回った。ある教科の先生が、実際にルビ付きの問題用紙を作って下さった。それまで30点前後だった点数が、その時は倍以上の点数になった。
 その話を聞いたもう一人の生徒Bさんも、漢字にルビを振ることで文章を読んで理解しやすくなる。しかし、Bさんは悩んだ末に、こうした配慮を依頼する選択をしなかった。その理由を、「怖い」と表現した。
 二人とも、本来持っている力が発揮できるにはどうすればよいのか知っている。自己理解ができているのだ。では、Bさんには、配慮を求めるためのスキルを身につけることが必要なのだろうか。
 Bさんが配慮や援助を求める行動をためらい、飲み込んでしまったのは何故だろうか。Bさんが配慮を要請するという選択ができるためには、何が必要だったのだろうか。恐らく世の中には、多くの“Bさん”がいる。“Bさん”だけが頑張るべきことなのだろうか。
 
 ご存知の方も多いと思われるが、40歳を過ぎてからご自身にディスレクシアの特徴があることを知った井上智さんは、自らの歩んでこられた人生を振り返り著書1)やサイト2)で発信をされている。
 井上さんが学校教育を受けたのは、特別支援教育の始まるずっと以前のことである。学習障害に関する理解など、ほとんどない時期であったこともあり、大変な子ども時代を過ごしてこられた。しかし、小学校6年生の時の担任であったS先生は、ある日、国語のテストの時間に彼を前に呼び、問題文や問いを読み上げてくれた。そして、彼が口頭で回答した内容を答案用紙に代筆してくれた。この時のテストの結果は95点だった。それは井上さんにとって、「人生で初めて」のことだったが、同時に最後でもあったという。周囲から「ずるい」と声があがり、井上さん自身も、「みんなと同じように「読んで、書く」のでなければ、ダメなんだと思い知らされた」からだった。
 
 6年生だった井上さんが教室で体験したことは、何十年もの時を経て、特別支援教育の時代に学校生活を送っていたBさんの選択につながっている。Bさんが配慮を求めることに踏み切れなかったのも、周囲と異なる手段をとることを批難され、その結果、それまでの関係が崩れたり、孤立させられたりして、自身が傷つくことを恐れたからだろう。Bさんがそう感じるに至った背景は、読み書きをめぐるBさん自身の直接の経験ばかりではないかもしれない。Bさんのことに限らず、様々な苦手さや困難さに対する周囲の反応、あるいは、何らかの「違い」に対する反応、間違えることや失敗することなどに向けられるまなざしなど、日常に出会うこうした場面をどう感じてきたかという、間接的な経験の積み重ねも影響しているのだろう。
 

堀ゼミの活動の様子


 何らかの援助を求める行動を援助要請という。援助要請を促進したり、抑制したりする要因については様々な研究がなされている。援助要請することが肯定的な結果につながるという予測や、過去に援助要請した成果への肯定的な評価などが促進する要因となり、自尊感情が傷つくことを含め、否定的な結果の予測などが抑制する要因としてあげられている。また、自分の存在や行動が認められていると感じていることも促進的に働くとされる。
 
 Bさんが配慮を依頼するための一歩を踏み出すには、まず、その依頼を相手が受け入れてくれる、少なくとも、その訴えに耳を傾け、一緒に考えようとしてくれると期待できることが必要である。それは、周囲への信頼(他者への信頼)である。同時に、周囲とは異なる選択が必要なBさん自身が受け入れられている存在なのだと感じていることも必要である。それは、自分自身への信頼(自己への信頼)である。どちらか一方で成り立つのではなく、相互の関係への信頼とも言える。
 
 こうした信頼は、教室の風土の中で育っていく。現行の学習指導要領では、主体的・対話的で深い学びが求められ、教育現場では「対話的」な学びを具現化しようと、様々な意見や表現の交流の場が設けられている。しかし、話し合いの場面で自分の考えを飲み込んでしまっている子どもはいないだろうか。誰もが安心して、他者と異なる考えを伝えられているだろうか。自分の形で表現できているだろうか。また、何かに困った時、わからないと感じた時に、誰もがそれを安心して表明でき、安心して力を借りながら活動に取り組めているだろうか。
 異なる意見を尊重し、互いに考え合いながら最適解、納得解を見出していくことは、強い声や同質の意見しか出せない関係の中ではなく、様々な声が出せ、その声を誠実に受け取り、共に考えようとする「話し合い」や交流の実現を目指す風土の中でこそ育っていく。そして、言葉になりきらない声に思いをはせる力も、そのプロセスを通じて育っていく。
 教室にこうした風土が育っていく中で、多くのBさんの選択が変わり、本当は選択したかった一歩を踏み出すことができるのだ。その一歩が尊重される様子を日常的に目にすることで、さらに教室の風土は育っていくのではないだろうか。
 
 1) 井上智・賞子(2012)「読めなくても、書けなくても、勉強したい ディスレクシアなオレなりの読み書き」(ぶどう社)
 2) 「成人ディスレクシア toraの独り言」(https://elpis.works/tora/)

植草学園大学・植草学園短期大学 特別支援教育研究センター
障害者支援を学ぶことは、すべての支援の本質を学ぶことです。千葉市若葉区小倉町にキャンパスをもつ植草学園大学・植草学園短期大学は、一人ひとりの人間性を大切にした教育を通じて、自立心と思いやりの心を育むことにより,誰をも優しく包み込む共生社会を実現する拠点となることを学園のビジョンとしています。特別支援教育研究センターは、そのビジョンを推進するため、平成26年度に創設され、「発達障害に関する教職員育成プログラム開発事業」(文部科学省)の指定を受けるなど、様々な事業を重ねてきています。現在も公開講座を含む研修会やニュースレターの発行なども行っています。

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