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自作短編小説『ため息の彼方』 第7話「ランドスケープ」

 カーテンが完全に開き、開放的な大きな窓が現れた。その先に、先程の夜明けの空と海の景色が広がっていた。以前よりも、夜明けの空は赤色を多く滲ませた色合いをしていた。海はその色を投影させるように輝いていた。窓のすぐ先に数棟の高層ビル群が建ち並び、その先には巨大な壁と風に揺れる林があった。高層ビルの最上階付近に位置する部屋の窓からの景色は、圧巻だった。私の足は自然と窓の近くに行っていた。後ろから彼女も後をついてきていた。

 窓のすぐそばに立った。近くで眺めるそれらの景色はさらに雄大に感じられた。私の隣で、彼女も同じように窓からの景色を眺めていた。そして私は見下ろす窓から、それらの存在に気付いた。

 例の何かがいた。海の手前にある湿地帯と砂浜の上に、複数の小さな人影と思わしきものが点在していた。それらは、赤い色をした小さな人影で、緩慢な動作で辺りを蠢いていた。私は目をこらしてそれらの正体を見極めようとした。ここは少なくとも地上からおよそ200メートルに近い地点にあったので、それらの正体を見極めるのに多少の時間がかかった。やがて私はそれらが何なのか分かった。

 「あれは、、、」と私は呟いた。
それは日本人形だった。赤い着物を着た、おかっぱ頭の黒髪の少女たちがそこにいた。背丈は人間の5歳児くらいに思われた。全員が全く同じ姿をし、機械のように無機質な挙動で海辺を蠢いていた。確認する限り、日本人形たちはその全員が、私のよく知るあの無表情な様相をしていた。その不変の表情を固定させ、緩慢な動作でそれぞれの方向へ機械的に辺りを蠢いていた。それらは不気味な雰囲気を纏っていた。あんな恐ろしい存在に私は追われていたのだ。冷や汗が出てきた。やはりあの時、振り返らなくて正解だった。

 「『座礁人形』って言うわ」と隣の彼女が言った。
「座礁人形、、、?」
「そう、普段は海の中に生活しているんだけど、人間が海辺に近付くと、一斉にその姿を現すの。そして人間を海に引き摺り込むために、集団で追いかける習性があるのよ」
私はそれを聞いて、先程の恐怖心が蘇ったような気がした。冷や汗の伝う身体は身震いしていた。しかし私は今、それらから遥かに離れた場所にいる。あの時のような危機は、私を取り巻く状況から既に排斥されているのだ。私はそう自分に言い聞かせ、心を落ち着かせた。

 「座礁人形に捕まって、生きて帰ってきた人間はいないわ。体格は人間の子供と同じくらいだけど、彼らは成人男性の平均的な力を何倍も上回る力を有しているの。それに加えて集団で襲ってくるから、一度捕まればまず逃げられないわね」と彼女は言った。
「私、振り返らなくて良かったかもしれない、、、。あんなの見ちゃったら身体が動かなかったかも」とそれらを見下ろしながら私は言った。

 「それが正しい判断だったわ。座礁人形には特殊な力があってね、彼らと視線を合わせると、金縛りのように身体が完全に硬直してしまうの。彼らの視線自体に多少の金縛りの効果があるんだけど、視線を合わせなければ、それは比較的容易に解くことができるわ。でも、彼らと視線を合わせることによる効果はその比じゃないの。何があっても身体が完全に硬直し、自分の意思では動かせなくなってしまう。それは一時的な効果ではあるけれど、座礁人形たちが対象を捕らえるための充分な猶予となってしまう」と彼女は話した。
だから彼女は私が後ろを振り返ろうとした際に、何度も首を振っていたのだ。そしてあの時私は、座礁人形たちの姿を見ていなかったにも関わらず確かに一時的な金縛りに遭っていた。私は色々なことに合点がいった。私と彼女は窓の先の景色を見下ろし続けた。

 「ところで、あなたにはあれらが何に見える?」と彼女は尋ねた。
「えっ、何って、日本人形ですけど、、、」と私は戸惑いながら答えた。質問の意味がよく分からなかった。窓の遥か先にいるのは、どう見ても日本人形だった。
「やっぱり。そうなのね、あなたは日本人だから、あれらが日本人形に見えているんだわ」と彼女は言った。
「ちょっと待ってください、どういうことですか」と私は慌てたように言った。さすがに今度ばかりは、その言葉の真意が理解できなかった。
「私とあなたとでは、あれの見え方が違っているということよ。私は人種的にはフランス人だから、あれらはフランス人形に見えてる」と彼女は言った。「簡単に言えばその人の意識の種類によって、座礁人形の見え方が異なってくるということね」と彼女は続けて言った。

 私は困惑した。これまで彼女が話してくれた不可解な現象についての話の中で、それは最も不可解な現象についての話だと思われたからだ。
そんな困惑しきった私を知ってか知らずか、彼女は話を続けた。
「量子力学における問題に、観測問題というのがあるわ。概して言えば、ある人が量子を観測しようとすると、その行為自体が観測対象であるその量子に影響を及ぼしてしまう問題のこと。それが観測問題。二重スリット実験なんかその代表例ね。つまり、人間の意識が量子に影響を与えて、その観測結果を変えてしまうというようなことが実際に起きるの」と彼女は話して、一旦間を置いた。それから再び話し始めた。「これと似たようなことが、座礁人形にも起きていると考えられているわ。要は私たち人間が座礁人形を観測すると、その観測者ごとに彼らの姿は異なって見えているということよ。だから今もこうして私とあなたとでは、それらの見え方は全く異なっているのよ。私たち人間の意識の形態を、座礁人形たちは反映させていると言えるわね」

 「嘘、、、そんなことって本当にあるんですか」と私は言った。実際それが現実に起きていることだとは、どうも呑み込めなかった。
彼女はそれに同意するように頷いた。夜明けの海辺を蠢く座礁人形を、私は不思議そうに見下ろした。やはりその姿は日本人形そのものだった。

 「人形という容姿はどの観測者にも一致しているから、座礁『人形』という名前が付いているんだけどね。それでも座礁人形の本当の姿は誰にも分からないの。それに彼らの生態については、かなり謎に包まれているわ。前提として、生物は突き詰めれば皆量子で構成されているんだけど、彼らの中の量子の働きが通常の生物よりもずっと活発であることは間違いないみたい。彼らの金縛りを発生させる特殊な効果も、量子の働きと何らかの相関関係がありそうね」と彼女は言った。
「何だかとても信じられない。人によってそれらの見え方が違うなんて」と私は率直な感想を自然と口に出していた。

 「でも、今だって変だと思わない?」と彼女は言った。
「えっ」
「私たちの会話が問題なく成立してることよ。私は今、フランス語であなたと会話しているつもりだけど、あなたはきっと日本語を話しているんでしょう?」と彼女は訊いた。


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