見出し画像

短編小説「バイト帰りの奇妙な出来事」

 書店のバイトが終わるのは、決まっていつも夜の十時を過ぎる。
隣町からバイト先まで自転車で通っている僕は、帰りになると暗い夜道を三十分以上走らなければならない。

 だけど今は三月で、段々と過ごしやすい季節に変化しつつある。
少なくとも、先月のような厳しい寒さは影を潜め、春らしい気候になってきた。
そのことは、自転車通勤には嬉しい事実だ。
それでもさすがに夜になると、まだ少し冷えるけど。

 バイト終わりの夜、僕は黄色いクロスバイクに跨り、いつもの川沿いの道を走っていた。

 大学が春休み中なので、バイトがある日は基本的に昼から夜までの勤務だ。
なので、かなり疲労が溜まっているんだけど、長時間労働から解放されて帰路につくこの時間が、僕は好きだった。

 夜の十時を過ぎれば、この川沿いの道は人も車も殆ど通らない。
たまに吹く風の音と、僕が乗る自転車の走行音が聞こえるだけだ。

 誰もいない夜道を、一人走っていく。
自転車に乗りながら浴びる風は冷たいけれど、どこか春の到来を感じさせるような陽気を帯びている気がする。

 見上げる夜空は全体的に曇っていて、星は一つも見えない。
チカチカと赤い点滅を繰り返す、交差点の信号機。
住宅の室内から漏れる、微かな明かり。
自動販売機は街灯と同じくらいの明るさで、周囲を照らしている。
そんな夜間だからこそ際立つ光源が川に反射し、揺れている。

 車道を抜けて、川沿いの遊歩道に入った時だった。

 進行方向の先から、子供の声が聞こえる。
それも一人や二人という人数じゃない。声の重なり具合からして、七、八人はいそうな感じだ。

 子供らしい賑やかなはしゃぎ声が、少し先の川の中から聞こえるのだ。
小学生くらいだろうか?
辺りは暗いし、声の方向からは二十メートルくらい離れているので、その姿は闇に包まれている。
でも、確かに十人くらいの子供の声が、それくらいの距離から聞こえている。

 こんな時間に、子供が川遊び?
昼間に何人かの子供が遊んでいるのは見かけたことはあるが、さすがに夜に遊んでいるのを見るのは初めてだ。

 ましてやまだ三月。日中は確かに暖かい日もあるが、夜は例外なく気温がぐんと下がる。
春は寒暖差が激しい季節だ。だから夜は水温がかなり低いはず。

 この季節のこの時間に川遊びなんて、にわかには信じられない。
それにこの川の水質はそこまで綺麗じゃないし、川幅は狭く、泳ぐには水位が低すぎる。

 だけど今、確かに子供たちが川で楽しげに遊んでいる声が聞こえる。

 僕のクロスバイクは子供たちの声がする方へ、どんどん近づいていく。
それに呼応するように、彼らのはしゃぎ声はどんどん大きくなっていく。

 やがて僕はゆっくりとブレーキをかけ、子供たちの傍らに立ち止まった。
川を見下ろすと、闇の中で子供たちのシルエットが、そこで遊んでいるのが見える。
近くに街灯がないため、彼らの姿ははっきりとしない。表情も服装も分からない。
でも、背丈や声の質からして、なんとなく小学校高学年くらいだろうと推察できた。

 確かに十人くらいの男児と女児が川を走り回ったり、水を掛け合ったりしている。
まるでここは夏の海岸や市民プールでもあると言わんばかりに、楽しげな声が周囲に響き渡る。

「なんで」僕は自然と呟いていた。
 付近の住人は不審に思わないのだろうか?
こんな時間に子供が川で遊んでいるのは、どう考えても不自然だ。それに、わざわざ街灯の照明が届かないこんな場所で。

 僕は好奇心に駆られ、車体を子供たちの方向に向けた。
自転車のライトが、闇の中にいた彼らを明るく照らし出す。

 その時だった。
さっきまで響き渡っていた子供たちのはしゃぎ声はピタリと止まり、一斉に僕の方を向いた。彼ら全員が直立不動の姿勢で、僕のことをジーッと見つめている。

 彼らには、表情というものがなかった。
みんな一様に無表情で、何を口にするでもなく、僕に視線を向けている。
およそ十人の子供たちがただ黙って僕を見つめるという光景は、奇怪としか言いようがなかった。

 そして僕は理解した。
彼らは、生きている人間ではない。この世の存在ではないのだ。
つまり、「幽霊?」僕は小さく呟いた。

 僕がそう呟いた瞬間、彼らはゆっくりと片腕を前に上げて、一斉に僕を指差した。
何か、彼らが言葉を発する予感がした。彼ら全員に、口を開く気配があった。

 僕は本能でそれを聞いてはいけないと察知し、急いで自転車を発進させ、その場から離れた。

 全力でペダルを漕ぐ中、チラリと後ろを振り返った。
見えたのは一瞬だったが、闇に包まれた子供たちのシルエットは、確かに僕の方を向いていた。

 この時、初めて僕は恐怖感に襲われた。
すぐにいつもの川沿いの道を離れ、住宅街の中を走った。

 それからの数十分間、無事に家に帰り着くまでまるで生きた心地がしなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?