【短編ミステリ】泳げないプール(3)
「マジでないじゃん……」
南から燦々と陽光が降り注ぐなか、すっかり水がなくなったプールを見下ろしながら、わたしはぽつりと言った。
浜野高校の二十五メートルプールの水は、見事に枯渇している。申し訳程度に、ところどころに水溜りが残っているぐらいだ。
「マジで、ないんです」
隣から、日向の沈んだ声が聞こえる。横を向くと、神妙な面持ちの水泳部部長と目が合った。気を取り直すように、いきなり声を張る。
「先輩、ではよろしくお願いします!」
梢も、重ねて言ってくる。
「よろしくお願いします!」
〔1〕と番号が振られたスタート台の上に座り、足をぶらぶらさせながら、凛は呑気にもこう言った。
「大丈夫、大丈夫。沙希なら、必ず真相にたどり着いてくれるから」
まったく、他人事だと思って……。
にしても、暑い。暑すぎる。
浜野高校のプールは、屋外にある。そのため、わたしたち四人は真夏の日差しに容赦なく照りつけられ、うだるような暑さに襲われる羽目になる。
そう。今日は記録的な猛暑日なのだ。地学の関口先生は、太平洋高気圧の勢力が強まった影響だとかなんとか言ってたっけ。額にじわじわと汗が滲んでくる。
この炎天下、これから学校のプールの水を抜いた犯人を見つけ出さないといけないのか。
さっきは堂々と「協力するわよ」なんて請け負ったけど、いざ外に出たらあまりにも暑すぎて、ちょっとめんどくさくなってきた。そんな諸々の思いが重なって、ついうっかり本音が漏れてしまう。
「これ、無理じゃない?」
間髪をいれず、日向が憤然と抗議してくる。
「ちょっと氷室先輩、何言ってるんですか。たったいま来たばかりじゃないですか」
梢も黙っていない。
「そうですよ。そんな簡単に諦めないでくださいよ」
「いや、それはそうなんだけどさ……。周辺に防犯カメラがあるわけでもないし、かと言って、怪しい人物とか誰かが見たわけでもないんでしょ?」
顔を曇らせながも、日向は素直に答える。
「はい……誰も何も見てないです」
わたしは肩をすくめた。
「じゃあ、お手上げだわ。無理だよ、何の手がかりもないんだもん」
途端に、日向と梢がじりじりと詰め寄ってくる。
「先輩、もっと真剣に考えてくださいよ」
と、日向。
「諦めるの早すぎですよ」
と、梢。
「わかった、わかったから。冗談言ってみただけだって」
ああ、ただでさえ暑い上に、暑苦しい!
ふと、わたしたちから二、三メートル離れたところにいる、十人ほどの後輩たちを一瞥する。
みんな、フェンスに背を向けて並んでいる。
いまの時間帯、フェンスのそばは木陰になっていて、日向と梢を除く水泳部員たちはそこに集まって涼んでいるのだ。蝉も鳴いていないから、静かな環境だ。思わず眉間に皺が寄りそうになるのを、我慢する。
さっき、わたしたちがプールに着くやいなや、「氷室先輩、苅谷先輩、どうかよろしくお願いします!」って声を揃え、後輩たちが一斉に頭を下げてきた姿を見て、なかなか可愛いとこあるんだな、と感心したりもしたけど、やっぱ撤回。可愛い取り消し。
わたしは嘆く。本当は今頃、JR内房線の涼しい車内にいて、クランキー・クリームの新作を食べに千葉駅に向かっていたはずなのに……と。
でも、もうしょうがない。約束したんだ。学校の先輩として、かつての部長として、ともに切磋琢磨した部員たちを失望させるわけにはいかないだろう。
わたしは腹を括り、日向と梢に向き直る。念を押して、もう一度尋ねた。
「あのさ、部員たちの間で目撃証言とかは、本当に一切ないんだよね?」
「はい。一切ないです」
そう答えると、梢は少し目を伏せる。
「先輩たちのところに行くまでに、部員みんなにちゃんと確認したんですけど……誰も何も見てませんでした。残念ながら」
「そっか」
まあ、それはわかっていたことだから、特に残念がることではない。わたしの質問は続く。
「じゃあ、水が抜かれるような理由に何か心当たりは? たとえば、水泳部を恨んだりしそうな人物とか思い当たらない?」
これには、日向が答えた。
「それもないです」
はっきりそう言って、ちょっと不満そうな顔になる。
「先輩、水泳部は別に人に恨まれるようなことは何もしてませんよ? 真っ当に活動してるつもりです」
……いや、それはわかってるんだけどさ、一応の確認じゃん。
日向は堂々と胸を張る。
「わたしは部長として、部員を信じています。誰ひとりとして、誰からも恨まれるようなことはしていない、って思ってるんです!」
わかった、わかった。わたしは苦笑いを浮かべた顔の前で、何度か手を振った。
さて、水泳部員たちが誰かから恨まれているわけではないことがわかったところで……水のないプールに視線を落とし、誰に言うともなくわたしはつぶやく。
「今のところ、手がかりはなしか」
手がかりがないのなら、別の角度から考えてみる。たとえば、犯人の心理を想像する、とか。再度、わたしは誰に向けて言うでもなく、
「プールの水道代ってさ、ものすごく高いんだよね」
すると梢が間を空けずに、
「みたいですね。一度の水の入れ替えで、何万円、下手したら何十万円もするって聞きますよ」
と返してくる。
「だよね」
わたしはひとつ頷く。
「で、プールの水道代が馬鹿にならないっていうのは、水泳部じゃなくてもなんとなくは想像できる……でしょ?」
次に答えたのは、日向だった。
「これだけ大きいんだから、誰だってそのくらいの想像はつきますよね。小学生だってわかると思います」
口を尖らせながら、日向は続ける。
「水泳部の活動妨害だけじゃなく、とんでもない損害をもたらしたんですよ。犯人は」
「うん」
いま、すべきなのは犯人への非難ではない……わたしは相槌を打ち、話を軌道修正する。
「で、プールの水を抜いた犯人だって、水道代のことはきっとわかっていたはずだと思うのね」
そこで一旦、言葉を切る。
「だけど犯人は、それを承知の上で水を抜いた。いや、抜かざるを得なかった」
日向も梢も、わたしの言いたいことがいまひとつ、よくわからないらしい。どちらも釈然としない様子だ。
それまで黙ってやりとりを聞いていた凛が、口を開いた。得意げな笑みを浮かべて、
「要するに、犯人には悪戯心や悪意があって水を抜いたわけではないって、沙希は思ってるんだ?」
スタート台の上に座ったままの凛に、わたしは頷く。口許が緩むのを自覚する。
「まさに、そういうこと」
よかった。凛にはわかってもらえた。
「なるほどね」
凛は足をぶらつかせながら、にこりと笑う。
だけど、日向は理解していないようで、
「なんでそうなるんですか? わたしは絶対、動機は水泳部に対する嫌がらせだと思ったんですけど」
なんて怪訝そうに言ってくる。
「あのさあ、日向」
わたしは片手を腰に当て、呆れて言った。
「あんたが断言したんだよ? 水泳部は、誰からも恨まれるようなことはしていないって」
「あっ……」
どうやら、納得してもらえたらしい。日向はあからさまに面食らった顔になり、梢はなるほど、と手を打っている。後輩二人のリアクションに満足すると、
「わたしだって、あんたたちが誰かに恨まれているなんて思いたくない」
そう前置きし、話し出す。
「……水泳部が、誰からも恨まれていないってことを前提に考えると、犯人は悪意があって水を抜いたわけじゃないってことになるはず。同時に、夏休みにプールを使うのは水泳部しかいないから、水泳部以外の誰かに恨みがあっての犯行でもないことになる。——プールの水がないと困るのは、水泳部だけってことね。
つまり、動機が悪意ではなかったとすると……犯人には、プールの水道代が死ぬほど高いってわかってても、それでも水を抜かざるを得ないほど、何かのっぴきならない事態が起きたんじゃないのかな」
少しの間があった。首を傾げて、おずおずと梢が訊く。
「のっぴきならない事態って、なんですか?」
ちょっと、言葉に詰まる。
「いや……それはまだ、わからないけどさ」
あるいは単に、わたしがそう思いたいだけなのかもしれない。水泳部が誰かの恨みを買うようなことはしていないって、水泳部に恨みを持つような人はいないって。そう信じて、ただ無理に理屈を並べているだけなのかもしれない。
結局は、単なる願望に過ぎないのだろうか?
難しい顔をしていたのだろう、凛が窺うように、
「沙希、大丈夫?」
と訊いてくる。いつの間にか、凛はスタート台から立ち上がっていた。
「うん。大丈夫」
答えると同時に、不意に気づく。それまで凛のお尻で隠れていたスタート台の上の一隅に、青い塗料のようなものが点々と散らばっていることに。
散っている範囲は狭いものの、スタート台は白で統一されているから、青はそれなりに目立つ。
なんでこんなところに塗料が、と訝っていると、凛が言った。
「あたしも、ちょっと考えていることがあってさ」
どう言おうか迷っているようで、少し言葉が途切れる。しかし、腕組みしながら放った凛の次の言葉に、わたしの注意は完全に向くことになった。
「そもそもプールの水ってさ、そんな誰でも簡単に抜くことってできるわけ?」
凛の指摘に、わたしははっとする。……そうか。
「そうだよ! ナイス、凛!」
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