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短編小説「夢のトリクルダウン・地下世界への片道切符・溶ける氷主義者」

 水曜日の夜、私は同僚と日本橋にあるバーにいた。
 我々はカウンターに隣り合って座り、ワインを口にしていた。上等と言うにはほど遠く、可もなく不可もなくといった表現はやや失礼にあたり、平均的な味よりは少しいいくらい、という評価が妥当だろうか。

 同僚の彼はワイングラスを傾けながら、突然訊いた。「なあ、トリクルダウンって信じるか?」
「なんだって?」普段は聞き慣れない言葉だし、適度に酔いが回っていたこともあり、私は訊き返してしまった。
「トリクルダウンだよ」彼は答えた。「富裕層がさらに富裕になれば、貧困層にも自然にその富がこぼれ落ちる、と提唱されている経済理論のことさ」

「なぜそんなことを聞くんだ?」
 彼はふっと控えめな笑みを漏らした。「メニュー表にシャンパンが載ってるだろ? そこから派生してシャンパンタワーのことを考えていたら、ふと思ったんだ」
「ああ、なるほど」私はトリクルダウンの理論を説明する図式、シャンパンタワーを思い浮かべながら納得して言った。
「で、どうなんだ? 君の意見が聞きたい」彼は私を横目で見ながら言った。

「信じないね。少なくとも僕は支持しない」私は少し考えてから言った。「現に企業が儲かっても、その儲けは社員の我々に還元されていない。給料が上がらないんだ。内部留保さ。こいつは深刻な問題だ。資本家だけが得をし、労働者は馬鹿を見る。つまり我々のような平民層に関しては、現在も失われた三十年の渦中にいると言えるだろうね」
「全くもって君の言う通りだ」彼は大いに満足したように頷いた。「この国は間違っている。金持ちはどんどん金持ちになっていき、貧乏人はどんどん貧乏になっていく。格差は拡大し続けるばかりだ。法人税が引き下げられる一方で、消費税は引き上げられている。この悲惨な現実のせいで、僕はこのままだと世の中を厭世的にしか見られなくなるような気がする。いっそのこと、脱サラして国外脱出でもしようかと考えているところさ」

 私はピーナッツの殻をむきながら、言ってみた。「レーガノミクスは、多少は効果があったみたいだね」
「昔の話さ。それに外国のことなんて比較対象にならない。政治・経済・社会状況が全然違うわけだからね」
 彼はそう言うと、風味を楽しむようにワインを飲んだ。「まあ結局のところ、トリクルダウンなんて夢や幻想の類いだと結論づけることができる」
 私は無言で頷き、肯定の意を示した。

「そういえば」彼はグラスの中のワインを飲み干すと、正面に陳列されている酒の棚を見つめながら言った。「昨夜、こんな物が自宅の郵便受けに入っていたんだ」
 彼は私に五センチ×十二センチほどの、切符のようなサイズの紙を取り出して見せた。
「それは?」
「〈地下世界への切符〉さ」
「地下世界への、切符?」私は眉間に皺を寄せた。「どこの鉄道会社がそんな物を発行してるんだ?」
 彼は口元を緩めて、小さく首を横に振った。「それはわからない。ただ、ここに書かれてあるだろ? 行き先が」

 彼の言う通り、その切符(らしき物)の中央には、『TICKET TO UNDERGROUND』という英文が印刷されていた。
「何かの悪戯だろ」私はワインを口に含んでから言った。「ささやかな悪戯だ。大して面白くはないが」
「ああ、よっぽどそっちの可能性の方が高い」同僚は軽く首肯した。「だけど、裏に電話番号が載っているんだ」
 彼はそう言って、〈地下世界への切符〉を裏返した。確かに、裏面に十桁の電話番号が記載されていた。

「切符を持っているだけじゃ、地下世界には行けない」彼は切符をひらひらと振った。「しかしこの番号に連絡すれば、もしかすると行き先を教えてくれるんじゃないのか?」
「どうだろうな」私はアルコールがもたらす影響を感じながら、少し首を傾げた。「そもそもは、言ってしまえば地下鉄だって地下世界だと定義できる。それなら僕は、毎日地下世界を経由して出社して、帰宅してることになるぜ」
「地下鉄のことだったとすれば、拍子抜けだな」彼は肩をすくめて言った。それから私の方へ、カウンターの上を滑らせるようにして切符を寄越した。「やるよ、君に」

 私は眉をしかめて、彼の顔を見返した。「なぜ?」
「こいつは片道切符だ。もしもこの『アンダーグラウンド』が、地下鉄なんかの深度ではなく、もっと地下深くの、例えば地底世界のことを指しているんだとすれば、僕は行けない。犬を二匹飼っているからな。僕が帰ってこなけりゃ、彼らは飢え死にしてしまう」
 私は困ったような笑みを浮かべた。「僕だって、一応は熱帯魚を飼っているんだけどな」
「犬と魚とじゃ、社会的なヒエラルキーが違うさ」彼は澄ました顔で言った。「君に試してみてほしいんだ。電話をかけて、地下世界が本当に存在するのかどうかを。そしてあわよくば、そこに行ってみてほしい」
「君は僕に地上から消えてほしいのかい?」私は微かに皮肉な笑みを浮かべて訊いた。
「いやいや、君には是非とも帰ってきてほしいと思ってるよ」同僚は真面目な顔つきで言った後、悪戯っぽく口の端を持ち上げた。「だって、そうでなけりゃ、地下世界がどんなだったかを知り得ないからね」

 そのような経緯から、私は〈地下世界への切符〉を手に入れた。

 〈地下世界への切符〉に記載されている電話番号に連絡する気になったのは、それから二週間後のことだった。

 その日、私は仕事で致命的なミスを犯して、上司からこっぴどく叱責され、挫折感を味わいながら月島の自宅マンションに帰り着いた。
 普段はやけ酒なんてしないのだが、午後十時を回る頃になると、リビングテーブルの上には何本もの缶ビールが並んでいた。

 そのせいで、少なからず私は正常な判断力を失っていた。
 何を思ったのか、二週間、机の抽斗に仕舞い込んだままだった〈地下世界への切符〉を手にし、裏面に載っている番号に電話をかけ始めたのだ。
 私はそれまで切符のことなんかすっかり忘れていたし、おそらく同僚の方もそうだっただろうと思う。
 あの日以来、我々はそれについての話題を一度も口にしなかった。二週間前のバーでのやりとりは、軽いジョークを交えたその場限りの会話に過ぎなかったのだ。

 過度なアルコール摂取がきっかけで、何かの拍子に私の記憶の片隅から切符という存在が引っ張り出されたのだろう。
 そして、私は電話をかけてしまった。
 理由は自分でもよくわからない。精神的に参っていたのかもしれないし、あるいは現実逃避を希求し、本気で地下世界へと逃亡したかったのかもしれない。

 三回目のコールが鳴り終わり、急に馬鹿ばかしくなって切ろうと思った時、向こうから声が聞こえた。『はい。こちら〈地下世界案内所〉でございます』
 凍結した路面のように冷たく、精密な時計のように無機質な女の声だった。『地下世界の訪問をご希望ですか?』
「ええ、まあ、はい、そうです」私は動揺して、深く考えずに答えてしまった。
 まさか本当に電話が繋がり、地下世界的マニュアルが聞こえてくるなんて、思いも寄らなかったのだ。

『ありがとうございます。日程はいつ頃をご希望でしょうか?』
「そうですね。一時間後なんかは可能でしょうか?」
 これが手の込んだ悪戯なのかは判断しかねるが、私は彼女の応対に乗ってみることにした。彼女にしたって、電話の向こうでは笑いを堪えているのかもしれないのだ。
『一時間後でございますね。承知致しました。では、これよりお客様のご自宅に伺わせていただきます。この度は当社のご利用のほど、誠にありがとうございます』
「あの」彼女が電話を切ろうとする気配がしたから、私は慌てて呼び止めた。
『はい?』
「私の自宅の住所を、まだ伝えていないと思うのですが』
 その時、初めて女が人間らしく、クスリと笑みを漏らす声が聞こえてきた。『問題ございません。お客様のご住所は、すでに我々の方で把握させていただいておりますので』
 そして通話は終了した。

 酔いを緩和させるために水を一杯飲んだ後、私は思案していた。
 向こうは知るはずのない私の住所を控えている、と言った。あの短い時間で、逆探知でもしたのだろうか。果たして、そんなことが本当に可能なのだろうか?
 そもそも彼女は、どうして私が在宅していることを知っていたのだ?
 アルコールが体から徐々に抜けてきたせいなのかはわからないが、体温が急激に下がっていくのを私は感じていた。

 〈地下世界案内所〉との電話からちょうど三十分後に、その男はやってきた。
 玄関に立つ初老の男は、どんな人間の警戒心でも丁寧に、しかし迅速に解きほぐしそうなほどの柔和な笑みを浮かべていた。
 年齢は六十代前半ほど。小柄で痩せていて、物腰が柔らかそうな雰囲気を身にまとっている。黒いスーツ姿で、右手にはビジネスバッグを提げていた。

 彼は私の名前を確認した後、自分の名前を名乗り、〈地下世界案内所〉の人間であることを告げた。
「失礼ですが、切符の方はお持ちでしょうか?」彼は笑みを崩さずに訊いた。
「ええ」私は彼に、同僚から受け取った切符を提示した。
「ありがとうございます。それでは、これより当社の車で〈地下世界への入り口〉までお連れさせていただきます。ご準備の方はよろしいでしょうか?」
「あの、切符は一枚しかないのですが、帰りはどうすれば?」私は訊いてみた。
「問題ありません」彼は小さく首を横に振った。「帰りの切符は、私共の方でちゃんと手配させていただきますので」
「そうなんですね」私は少し弛緩して言った。「それは良かった」

 だが、彼の穏やかな面持ちの何かが、ふと私を落ち着かない気持ちにさせた。
 私は気づいた。目が笑っていないのだ。彼がどれだけマニュアル通りに口角を上げようと、目元だけは一切の感情が確認できなかった。

 私の本能が危険を訴えていた。
 地下世界を訪問することは、間違った行為であると。
 考えてみれば、私には得体の知れない機関を通じて、地下に下りるべき理由は何一つとしてないのだ。
 酔いが醒めていくほどに、思考は現実的な判断を導くようになっていた。

「すみません、やはり辞退させていただきます」私は男の目を真っ直ぐに見据えて言った。「地下世界の訪問は、やめておきます」
 男はその細い目を少し見開いた後、「そうですか」と言った。「承知致しました。では、私はこれで失礼させていただきます」
 男はそう言って頭を下げ、ドアノブに手をかけようとした。
「あの」私は男の背中に向かって呼びかけた。「一つお聞きしたいのですが」
「なんでしょう」
「あなた方のいう、地下世界とはどれくらいの深さなのですか?」
 男は頬を緩めると、「マントルに到達するほどの深さです」と答え、私の部屋を出ていった。

 ドアの鍵をかけ、居間に戻ると、そこには氷主義者がいた。
 氷主義者は冷蔵庫を開け、中からカップのアイスクリームを手に取り、リビングテーブルに座って、それをおもむろにスプーンで食べ始めた。
 その一連の動作を、私は黙って眺めていた。

 気がつくと、身が凍えそうになるくらい、室内温度が一気に低下していた。
 氷主義者が部屋に現れると、必ずこうなるのだ。これが夏場ならまだしも、今のような二月の気候だと迷惑以外の何ものでもない。
 そして他人の部屋に侵入した氷主義者は、無断で冷蔵庫を漁り、勝手にアイスクリームを食べる。彼、もしくは彼女(性別の判断がつかないほど、中性的な外見をしているのだ)特有の奇妙な習性だ。

 仮に冷蔵庫の中にアイスクリームがなかった場合、-理不尽にも-氷主義者は劣化の如く怒り出す。つまり、できることなら遭遇したくない、極めて厄介な存在だと言える。
 氷主義者はベンサムの最大多数の最大幸福を真っ向から否定するような、利己的な性格なのだ。

「さっきの男だけどね」氷主義者はアイスクリームを食べながら言った。「あの男は危険だよ。過去に人を殺したことがある」
「何を根拠にそんなことを言うんだ?」
「根拠なんかないさ」氷主義者はそこで初めて私を見た。「私がそう思ったから、そう言っただけだ」

 五分後に、氷主義者はようやくアイスクリームを完食した。
 氷主義者はアイスクリームを食べている間、地球温暖化の原因は全て人間にあり、普段から自分がどれだけ苦しい生活を強いられているかを私に力説した。
 また、北極の氷が溶けてホッキョクグマが困っているのは、完全に人間が排出する温室効果ガスのせいであるとも主張した。
 最終的には、人類は地球環境のために早急に絶滅すべきであるという結論に達し、うんうん、と満足げに頷きながらアイスクリームを口に運んでいた。

「まだ、アイスクリームは他にもあるみたいだけど」氷主義者は冷蔵庫をちらりと見て言った。
「もう帰ってくれないか」私はぴしゃりと言った。「君がいると、風邪を引くのも時間の問題だ」
 氷主義者は悲しそうに何度か首を横に振りながら、氷のように溶け出して、私の部屋からいなくなった。
 氷主義者が座っていた椅子の座面は、まるで大量の水をこぼしたみたいに、びっしょりと濡れていた。氷主義者がそこにいたことを暗示する、物理的な痕跡。

 暖房のスイッチを入れ、水槽の中を泳ぐ熱帯魚を少し観察した後、私は衝動的に〈地下世界への切符〉を破いて捨てた。
 その日の唯一の収穫は、私の日常は地上で事足りると理解できたことだった。

〈了〉

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