【短編ミステリ】泳げないプール(2)
下駄箱から取り出したスニーカーに履き替え、外に出ようとした時だった。
「あ、いた!」
聞き慣れた女子の大声が、昇降口に響く。二人の女子が、わたしと凛の前に立ちはだかった。
進路を塞いだのは、よく見知った二人だった。
後輩の、酒井日向と河村梢。
両方とも二年で、水泳部のそれぞれ部長と副部長。わたしと凛は六月の半ばに引退したばかりだから、約一か月半ぶりの再会になる。
ちなみに、先月までわたしが部長で、凛が副部長だった。
走ってきたのか、日向も梢もぜえぜえと息が荒い。
日向は髪をばっさり切っていて、ベリーショートになっている。梢は変わっておらず、ポニーテールのままだ。どちらも背格好が似ていて、よく日に焼けている。
そんな二人を交互に見ながら、わたしは冷静に訊く。
「……どしたの、あんたたち?」
深刻そうな顔の、日向が言う。
「先輩、水泳部の危機です」
「危機?」
わたしがそっくり訊き返すと、梢が真剣な眼差しを向けてくる。
「事件が起きたんです」
次に反応したのは、凛だった。
「事件!?」
見ると、目をきらきらと輝かせている。
「なになに? 事件って何? どんなことが起きたの?」
やっぱり……。こういう時の凛は、一気にテンションが高くなる。
まずいな、とわたしは思う。「謎」や「事件」というキーワードが出てくると、凛はきっとドーナツのことなんてそっちのけだ。
「はい、それがですね……」
日向が破顔して答えようとするのを、わたしは手のひらで制した。
「待って」
水を差す形にはなるけれど……話は長くなりそうだ。
他の生徒たちの出入りの邪魔にならないように、わたしたち四人は昇降口の隅に寄った。部長の日向と副部長の梢、そして元部長のわたしと元副部長の凛が、二対二の構図で向き合っている。
「プールの水がですね、消えたんですよ」
まるで怪談でも話し出しそうな調子で、日向が切り出した。
わたしは小首を傾げる。
「……水が消えた?」
「消えたんですよ、文字通り! プールの水が、きれいさっぱり無くなってるんです!」
わたしはちょっと顔をしかめる。日向の声、単純にでかいのだ。いや、さすが運動部の部長といったところだ。わたしは片手を腰に当て、
「それは、誰かが水を抜いたってこと? そんなに騒ぐってことは、今日はプール掃除の日とかじゃないってことね?」
と確認する。
「理解が早いですね。さっすが氷室先輩です」
梢に褒められた。少しわざとらしい気もするけど、褒められるっていうのは決して悪い気分じゃない。たとえ、それが後輩だろうと。
梢が説明する。
「そうなんです。今日も、いつものようにお昼から練習の予定だったんです。全員、水着に着替え終わった後、プールに向かったら、水が抜かれてることに気づいて……。
昨日の夕方までは、確かにあったんですよ? でも、今日のお昼に来たら、すっかり空になっていたんです。そこからは、大騒ぎですよ。だって、プール掃除の日なんて、まだまだ二週間以上先なんですから」
いま、日向も梢も制服姿だ。プールの水がないとわかった後、水着から制服に着替え直したのだろう。
凛が、満足げな顔で腕を組む。
「それで、水を抜いた犯人をうちらに突き止めてほしいってことね? 水が抜かれた理由も」
日向は素早く首肯した。
「そういうことです! さすがです、苅谷先輩!」
この瞬間、わたしは察した。あ、この子たち、うちらをヨイショしてるな、と。
思い出した。これは、彼女たちの常套手段なのだ。先輩を持ち上げる時は、基本的に何かしらの恩恵にあずかろうとする——それが日向・梢コンビだ。
たとえば、部活中に先輩の泳ぎを徹底的に褒めて、放課後にコンビニでアイスを奢ってもらおうと画策する、とか。
まさにいま、わたしたちが引退した後も、その手段を行使しようとしている。プールの水が消えた謎を、解かせようとしているのだ。
この二人、抜け目ない。
そう気づいた時には、わたしはかぶりを振っていた。そうよ。そもそもわたしには、本来の目的がある。
「だめだめ。うちら、犯人探しなんてしないわよ。そんな暇ないんだから。そもそも、顧問の眞鍋先生は? 先生には報告したの?」
今度は、梢がかぶりを振った。
「眞鍋先生は、先週から産休に入ってます。いま、水泳部に顧問の先生はいません」
凛がつぶやく。
「あ、先生、赤ちゃん産まれるんだ」
「そういうことです。ちなみに、臨時の顧問もまだ未定です」
と、日向。なぜか勝ち誇ったような顔で、日向は続ける。
「要はですね、いまわたしたちが頼れるのは、先輩たちしかいないってことです!」
「はあ?」
思わず、わたしは間抜けな声を出していた。でも、訊かないわけにはいかない。
「なんで頼れるのが、わたしと凛しかいないのよ?」
梢が、むすっとした顔で反論してくる。
「だって、氷室先輩は元部長で、苅谷先輩は元副部長じゃないですか。顧問がいないなら、いちばん頼れるのが先輩たちってことです」
「いや、それはそうかもしれないけど……」
危うく、納得しそうになる。おお、危ない、危ない。
「それに!」
と、日向が力強い声で、捲し立てる。
「氷室先輩、思い出してください。先輩の、これまでの数々の実績を。『女子の水着紛失事件』も、『プールサイド花火事件』も、それから、『笹本先輩の盗撮疑惑事件』も……解決に導いたのはぜんぶ、氷室先輩じゃないですか!」
梢も、同じ言葉を同じ勢いで繰り返す。
「氷室先輩じゃないですか!」
さらに二人揃って、
「「氷室先輩じゃないですか!」」
後輩たちの迫力に押され、わたしは半歩下がる。
「う……なんなのよ、あんたたち。息ピッタリか!」
このやりとりに、凛は呆れたように笑っているけど、わたしにとっては死活問題だ。わたしは、両手を腰に当てる。
「あのねえ、わたしたちはもう引退した身で、受験生なの。いい? 部活の問題は、あんたたち部長と副部長が率先して対処するのが、筋ってもんじゃないの?」
わたしはなんとか理屈をこねて、二人の協力要請を断ろうとしているのだ。
「沙希。いいじゃない、協力してあげれば』
案の定、凛は二人の味方をしてくる。
当然だ。いま、凛にとって、「クランキー・クリームの新作を食べること」よりも、「プールの水が消えた事件」の方が圧倒的に優先順位が高いのだから。
凛の説得は続く。
「それだけさ、沙希の推理力を高く買ってくれてるってことだよ」
日向も梢も、うんうん、と大きく頷く。
しかし、なおもわたしは抵抗する。
「いいや、だめよ、だめ。部長と副部長はもうあんたたちなんだから、二人が部を引っ張っていかなきゃ。甘えてちゃだめ。引退した先輩に頼ってたら、成長なんてできっこないよ」
「そんなこと言っちゃって、ほんとは新作のドーナツ、早く食べたいだけじゃない」
ついに凛が、痛いところを突いてくる。意地の悪い笑みを浮かべる凛に対して、とうとうわたしは反論できない。
信じられないとでも言うように、日向が大きく目を見開く。
「ええ、先輩そうなんですか? ひどい。水泳部の非常事態よりも、ドーナツのことの方が大事なんですね」
梢も、恨み節を放ってくる。
「先輩、もう水泳部員じゃなくなったら、わたしたちのことなんかどうだっていいんですね……」
極めつけに日向が、
「やっぱり氷室先輩は名前の通り、氷みたいに冷たい性格なんだ……」
……ムカつく。なんなの、もう。名前はカンケーないじゃない。これ一度、笹本にも似たようなこと言われて、本気で怒ったことがある。
でも、後輩にはやらない。大人げないから。
「沙希」
凛が優しく、わたしの肩に手を置いてくる。
「ドーナツは、逃げないよ。でも、謎は時間が経てば経つほど、解決するのが難しくなるんじゃない? 後輩のためにもさ、協力してあげようよ。ね?」
ああ、もう。わかったわよ。みんながそこまで言うなら……。
わたしはロングの髪をくしゃくしゃにかきながら、ヤケになって言う。
「するわよ、協力する。一肌脱いでやるわよ、かわいい後輩のためだもんね」
途端に、日向と梢の表情が明るくなる。
「「先輩!」」
そうしてわたしたち四人は、よく晴れた空の下を走っていた。泳げなくなってしまった、プールに向かって。
決して走りたかったわけじゃない。日向と梢が走り出したから、仕方なくわたしと凛も後輩たちの背中を追いかける形になったのだ。
晴天を見上げながら、わたしはつぶやいていた。
「もう、しょうがないなぁ……」
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