【掌編】ふたつのハレー彗星
1986年・冬
川崎市青少年科学館の屋上では、多くの子供たちが望遠鏡の順番待ちをしている。
目的は、76年ぶりに地球に接近したハレー彗星。
だけど今回は近日点の問題など、悪条件が重なって、残念ながら肉眼では観測することはできない。
だから、僕を含めた地元の子供たちは、超高倍率の大型望遠鏡を求めて、自然とこの科学館に足を運ぶことになる。
僕は去年の十二月から何度も足繁くここに通い、望遠レンズを覗き込んでは、壮大な彗星の姿を拝ませてもらっている。
家が多摩区内にあるため、自転車を飛ばせば気軽に来れる距離にあるのだ。
行列に並んでいる間、僕は満天の夜空を眺めていた。
いま、寒さと退屈を紛らわすのに最もうってつけなのが、星座を探すことだった。
中には、ゲーム&ウォッチを持ってきてピコピコやっているやつもいるけど、そんなのは邪道だ。
しばらくして、西の方角におうし座を見つける。プレアデス星団とヒアデス星団が目印だ。
でも、星座探しは決して長続きしなかった。ずっと見上げていると、じわじわと首が痛んでくるからだ。
そして顔を戻した途端、盛大なくしゃみをしてしまった。ああ、やっぱり寒いんだな。
鼻水をすすっていると、僕の前にいた女の子が振り返って、「大丈夫?」と訊いてきた。ポケットティッシュを渡してくれる。
「ありがとう」
礼を言い、ティッシュで鼻をかむ。かんでいる最中、僕は気づいてしまった。
暗がりの中でもわかる。河合奈保子似の、とんでもなく綺麗な女の子だ。
中学生だろうか? いや、ちょっと大人びてはいるけれど、たぶん僕と同じ小学生だろう。
僕は勇気を振り絞って、話しかけた。「こんにちは……じゃなくて、こんばんは」
女の子はクスッと笑った。「こんばんは」
「ティッシュ、どうもありがとう」
微笑みを浮かべながら、「どういたしまして」と女の子は返す。
「えっと、地元の子?」
「うん、そうだよ。多摩区。君も?」
「僕も多摩区。家もここからすぐ近くだよ」
「一緒だ」と女の子は笑って言い、「何年生?」と尋ねた。
「小五」
「ホントに? わたしも小五だよ」
やった、同級生だ!
「名前、なんて言うの?」
そう訊くと、女の子は、「キョーコ」と得意気に答えた。「キョンキョンと同じ字、書くんだよ」
今日子ちゃんか。素敵な名前だ。
「君は?」
「僕、研志」
「研志君か。研志君は星が好きなの?」
「うん、好きだよ」
しまった、今日子ちゃんの目をまっすぐ見て答えてしまった。
「今日子ちゃんも?」
「うん、大好き。何回も来てる」
今日子ちゃんは満面の笑みで答えた。「それにね、76年に一度しかやってこないじゃない? だからね、科学館のおっきい望遠鏡でちゃんと見てあげないと、ハレー彗星に失礼だって思うのよね」
彗星に失礼、か。その発想はなかった。その独特な感性に、ますます僕は惹かれる。
「望遠鏡、早く覗きたいんだよね、夜のヒットスタジオに間に合うように。家に帰ってご飯食べて、お風呂に入ってからゆっくり観たいんだ、わたし」
「今夜は誰が出るの?」
「明菜ちゃん」と今日子ちゃんは笑顔で答えた。うん、ちょっとややこしいな。「研志君は歌手で誰が好き?」
「僕は……」
少し考え込む。
最近、中学生の兄の影響で、新田恵利を好きになりかけていたが、今日子ちゃんの前でそんなこと口が裂けても言えるはずがない。
よし、決めた。もう『夕やけニャンニャン』は卒業しよう。
そして僕は無難に、「サザンとか良いよね」と答えておいた。
「サザン」と言って、今日子ちゃんは目を輝かせる。「お父さんが大ファンでさ、わたしもよく聴くんだ。うちにレコードいっぱいあるよ。今度、聴きに来る?」
「いいの?」
今日子ちゃんは笑って頷いた。「いいよ」
その瞬間、僕は心の中でガッツポーズした。
突如として訪れた幸福感を味わいながら、ふと考えた。
次の、およそ76年後のハレー彗星も、長生きして、今日子ちゃんと一緒に見たい。
そんな果てしなくて途方もない夢を、僕は抱いてしまった。
2061年・夏
夫の研志は、縁側に座って、もう何時間もずっと夜空を見上げている。
7月29日。今日は76年ぶりに来訪した、ハレー彗星の近日点なのだ。
1986年の時とは違い、今回は肉眼で鮮明に見ることができる。
この周期彗星に日本中が、いや世界中が熱狂している。
夫は十年以上前まで、横浜の大学で天文学を教えていた。
天体について専門に研究してきた彼の、ハレー彗星への想いが誰よりも強いことを、半世紀以上連れ添ってきた妻のわたしは誰よりも知っている。
夫の傍らに、そっとコーヒーカップを置いた。「お父ちゃん、コーヒー淹れたよ」
「ああ、どうもありがとうございます」
夫は振り向き、他人行儀に礼を言う。
わたしのことを、住み込みの家政婦だと思っているのだろう。
夫は数年前から認知症にかかり、徐々に症状が進行していった末、今ではすっかりわたしのことを忘れてしまっている。
宇宙に対する知識や憧れは覚えていても、妻の存在は忘れてしまうのだ。
そのことが、何よりもわたしの心を痛めた。
夫の隣に、わたしも腰掛けた。
夜空に悠然と浮かぶ、長い尾を引いた壮麗なハレー彗星の姿に、改めて言葉にならない感動を覚える。
76年前のあの日、夫と初めて会った時のことが、ふと甦る。
二人ともまだあどけない、小学五年生だった。科学館の屋上で、好きな音楽の話なんかで盛り上がったっけ。
あまりの懐かしさに、思わず目を細める。
その日に夫がわたしに一目惚れしたことを、後から聞かされた際には、とても驚いたものだ。
わたしは夫を横目でちらりと見た。
コーヒーカップを口に運んでいる。
大学の教授だった夫が夜遅くまで書斎に籠っている時、いつもわたしはドリップコーヒーを淹れては、彼のところへ持っていってあげていた。それが習慣だった。
四十年以上も前に、ローンを組んで川崎市内の多摩川近くに建てたこの家には、ちょっとした天文台のスペースがある。
でも、夫は好んで縁側で彗星を眺めている。足腰が悪いため、三階まで上がるのが億劫なのだろう。
「今日子」
不意に、夫がそう呼んだ。
わたしは驚いて、夫の横顔を見つめた。
「今日子」
夫は空を仰ぎながら、もう一度、確かにわたしの名前を呼ぶ。
「お父ちゃん?」
すると、夫の左手が伸びて、わたしの右手に重なる。
夫はわたしの方を向いて、穏やかな笑みを浮かべた。「あの彗星のおかげで、君と出会うことができた。今日子、ありがとう」
「お父ちゃん……」
夫の痩せて骨ばった手の甲に、わたしの涙が一粒、こぼれ落ちた。
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