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自作短編小説『ため息の彼方』 第5話「室内」

 開放的なロビーは閑散としていた。そこには殆ど誰もいなかった。左奥の窓辺のテーブル席で、一人のスーツ姿の男性が新聞を読んでいるくらいだった。彼は私の存在など気に留める様子もなく、難しい顔で新聞を読んでいた。その近寄り難い彼の雰囲気を、隣の観葉植物が幾分和らげているように見えた。

 広々としたロビーの内装は、全体的に白を基調とした絢爛なデザインで統一されており、精緻な造りになっていた。天井にはいくつもの豪華そうなシャンデリアが吊るされていた。そのシャンデリアは煌びやかな照明を部屋の中に放ち、白い大理石の床はその光を反射させていた。正面に受付があったが、そこには誰も座っていなかった。この建物は大企業の集まる商業ビルか、あるいは一流ホテルのどちらかだろうと私は想像した。

 エントランスから向かって、ロビーの右奥の中央部にエレベーターが設置されていた。私はそちらまで歩いた。エレベーターの隣には大きな階段があったが、私はとても階段を利用する気にはなれなかった。この建物の高さはおそらく全長200メートル近くはある。そしてあの女性がいた部屋の位置は最上階に近かった。わざわざ言及せずともその部屋はかなり高い位置にあり、そこまで階段を使って行くことは相当な難儀であることは明らかだった。私は迷わずエレベーターのボタンを押した。

 しばらくして扉が開いた。私はエレベーターの中に乗り込んだ。中は、私の自宅のマンションのような一般的なエレベーターの空間よりもずっと広かった。4面の白い壁が周りを囲み、その中の左右の壁に、地下2階から地上60階までのボタンがそれぞれ配列されていた。私は58階のボタンを押した。あの女性の部屋は、最上階から数えて3段目の位置にあった。この58という数字で間違いはないように思えた。それから閉扉のボタンを押して、扉がゆっくりと閉じた。

 エレベーターが上昇していく感覚があった。見上げると、液晶パネルに表示された数字がどんどん大きくなっていった。それに合わせるかのように、私の心拍数もどんどん上がっていく気がした。あの女性に会いに行くことは、旧友に数年振りに会いに行くかのような緊張感があった。実際にそういう経験をしたわけではないが、私は確かにそのような緊張に駆られていた。しかしそれは嫌な緊張ではなかった。大きな期待を膨らませた類いの緊張だった。

 やがて液晶パネルは『58』という数字を表示させ、音もなく停止した。扉がゆっくりと開き、私は外に降りた。背後でエレベーターの扉がゆっくりと閉まった。
 
 広大な廊下が正面に向かって遠くまで伸びていた。その空間は豪華なホテルを私に想起させた。ロビーと同じく、全体的に壁や天井は白で統一されており、いかにも高級感溢れる壮麗な装飾が施されていた。床には幾何学模様をした赤色のカーペットが奥まで伸びており、等間隔に設置された天井のシャンデリアは淡いオレンジの光をその空間に落とし込んでいた。私を挟む左右の白い壁にはいくつもの茶色の扉が一定の距離を置いて、廊下の奥まで続いていた。私から向かって左の壁が海側に面した部屋であり、その中の一室にあの女性のいた部屋があるはずだった。その部屋は海側から見て、左端から2番目の位置にあったはずだ。

 私はその部屋まで歩き出していた。豪華な造りの長い廊下を奥へと進んで行った。廊下は静寂に包まれていた。その中に人の気配は感じられなかった。そこには私のカーペットを歩く足音が控えめにあるだけで、それ以外の物音は一切していなかった。たまに左右の壁に抽象画と思われる絵画が飾られていた。それらはどれも私には理解のできない類いの絵画だった。しかしなぜだかそれらの絵画が私の緊張に駆られた心を落ち着かせてくれるような気がした。

 やがて私は、彼女がいると思われる部屋の扉の前に到着した。茶色の扉の上半分は磨りガラスになっていたが、中の様子はよく分からなかった。扉の近くにはインターホンがなかった。私は意を決して扉をノックした。

 少しして磨りガラスの向こうから、女性のシルエットが浮かび上がった。鍵が開錠された音がし、扉が開いた。扉から出てきたのは、紛れもなく私を救ってくれたあの女性だった。ブロンドのヘアーにグレーのスーツを着た、美しい顔立ちをした女性だった。通りで見かけた通行人と同じく、彼女も西洋的な顔立ちをしていた。彼女の見た目は女優と形容しても差し支えないくらいに整っており、どこかしら知的な雰囲気があった。年齢は私より少し上くらいに思われた。身長も私より少し上くらいだった。私が160センチ前半なので、彼女はそれより数センチ高い160センチ半ばか、あるいは後半と言ったところだろう。私は大変な状況から抜け出せて、彼女に対面できたという安堵の思いから、しばらくその場に立ち尽くしてしまっていた。

 「あなたはここに来るんじゃないかと思っていたわ」と彼女は微笑を浮かべて言った。
「どうして、、、」と私は呟いていた。どうしてそんなことが分かるのだろうという疑問を込めていた。
「何となくそんな気がしたの。というより、私もあなたと話したいと思っていたから」と彼女は言った。通りで私が話しかけた男性と同様に、彼女も流暢な日本語を喋った。
「あなたが、私を救ってくれたんですよね。本当に、ありがとうございましたっ」と私はやっとの想いで言った。
彼女は首を振った。「特別なことは何もしてないわ。とにかく、あなたが無事で良かった」
私は知らない世界で、自分を気遣ってくれる人間がいることに胸が高鳴った。
「大変だったわね。ほら、部屋に上がって」と続けて彼女は言った。
「良いんですか」と私は訊いた。
「当然じゃない。訊きたいこと一杯あるでしょ、ほら入って」
「はい」と私は頷いた。

 それから彼女は私が部屋に入るまで、扉が閉まらないように片手で支えてくれた。私は礼を言って部屋の中に足を踏み入れた。
「靴はそのままで良いわ」と彼女は言った。
「あっ、はい」と私は了承した。私は海辺で拾った黄色のスニーカーのまま部屋の中に入って行った。

 私の前を歩く彼女の後ろ姿は毅然としていた。彼女は白いスニーカーを履いて、部屋の細長い廊下を上品な足取りで歩いていた。私はその後ろをついて行った。廊下の左右の壁にはいくつかの白い扉があった。それらの間を通り過ぎ、彼女は私を奥の部屋へと案内した。

 私と彼女は部屋に入った。室内は一流ホテルのスイートのように広々としており、洗練された壮麗な造りだった。ベージュの壁、白い大理石の床、白い天井に吊るされた青白い灯りのシャンデリア、豪華絢爛な空間がそこに構成されていた。部屋の中央にダークブラウンのテーブルが置かれ、壁際には同じ色をしたいくつかのソファが置かれていた。部屋の奥にはグレーのカーテンが引かれており、外の景色は確認できなかった。カーテンの手前にはいくつかの観葉植物が置かれ、それらは部屋に平穏を想起させるかのような効果を与えていた。彼女はこの部屋から私に合図を送り、私を救ってくれたのだ。その部屋に今自分がいることに、私は何だか不思議な気持ちになった。外の少し肌寒い気温とは違い、ここの室内は暖かった。

 「喉渇いてない?何か作るからそこの椅子に掛けてて」と彼女は中央のテーブルの席を示して言った。
「あっ、はい。お構いなく」と私は遠慮がちに言った。しかし実際のところ私はかなり喉が渇いていた。彼女のその言葉は、私にとってありがたい提案だった。彼女は奥のキッチンの方へと向かっていた。

 私はテーブルの椅子に腰掛けた。正面の壁には、どこかのヨーロッパの国の街並みと思われる遠景写真が飾られていた。左の奥にエッフェル塔らしき建物があったから、おそらくそこはパリの風景なのだろう。綺麗な風景だった。そして私の背後には窓を塞いだカーテンがある。きっとそのカーテンの先から、夜明けの海の景色を見下ろせて、その手前にいるはずの得体の知れない存在の姿を確認できるのだろう。
 
 少しして彼女がグラスを手に戻ってきた。グラスの中には綺麗な黄色に近い透明な液体と複数の四角い氷が入っていた。
「レモネード。疲れた時にはこれが一番に身体に効くのよ」そう言って彼女は私にグラスを手渡してくれた。
「ありがとうございます。とても喉が渇いてたから、助かります」と私は受け取って言った。
「そうだと思った」と彼女はにっこりと微笑んで言い、テーブルを挟んで私の正面の椅子に座った。
私はそれを一口飲んだ。
「美味しい」と私は呟いた。ほのかな甘さと酸味が効いていて、とても美味しかった。それは渇いた喉を一気に潤してくれた。
「良かった」と彼女は言った。
「とても気分が落ち着く味、本当に美味しい」
「作った甲斐があったわ」
 
 私はよっぽど喉が渇いていた。だからそれを全部飲んでしまうのに大した時間はかからなかった。おそらく1分もかからなかった。私がグラスに注がれたレモネードを飲み干すまで、彼女は黙ってその様子を見つめていた。その間、少しの沈黙があった。

 やがて彼女が口を開いた。
「あなたは、この世界の住人ではないのよね?」と彼女は尋ねた。


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