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ショートストーリー「絶対に名は明かせない」

 喋ってみると、名無しの権兵衛は意外といいやつだった。

 彼の部屋は僕の隣で、以前から気になる存在ではあった。
 だって、決して自分の名前を明かそうとしない同学年の隣人なんて、気にならないはずがない。
 だけど同時に、決して自分の名前を明かそうとしない彼のその特殊性は、周りから一定の距離を置く役割を果たしていた。事実、彼は寮の中で浮いていた。

 だけどひょんなことから、僕は彼と親しくなった。
 一昨日のことだ。冬休み、年の瀬が近づくと、寮はほとんどの学生が帰省していて、残っているのは僕と彼を含めた数人だけだった。

 夜、ずいぶんと寂しくなった寮の食堂で、僕はレバニラ定食を一人で食べていた。
 その近くには彼、名無しの権兵衛がいて、メニューはぼくと同じだった。
 ただ彼の場合、ご飯を三度おかわりし、レバニラを三度おかわり、味噌汁を二度おかわりし、アジフライに至っては五尾平らげていた。大食漢なのだ。それに寮生がほとんどいないため、夕食はかなり余っていた。

 互いに誰とも喋ることなく、黙々と食事する中、聞こえるのは陽気なテレビの音だけだった。食堂のテレビは、『マッドファミリー』を映していた。
 『マッドファミリー』は毎週火曜日の夜、NHKで放送しているアメリカのホームドラマで、二十年以上続いている長寿番組でもある。僕はほぼ毎週欠かさず視聴していて、その時ももちろん視線はテレビに釘づけだった。

「好きなの、『マッドファミリー』?」
 それが名無しの権兵衛の声だと気づくのに、少し時間がかかった。彼の声をまともに聞いたのは、この時が初めてだったのだ。
 彼は箸を動かす手を止めずに、「ほら、すごく熱心に観てるからさ」と言った。
「ああ、好きだよ」僕はやや遅れて答えた。「毎週観てる。マッドファミリーファミリーだよ」
 マッドファミリーのファンのことを、『マッドファミリーファミリー』というのだ。少しややこしいが。
「本当に?」彼はレバニラを頬張りながら、嬉しそうに言った。「なあ、一番好きな回って何?」
「マーシーの釈放記念パーティーの回だね」僕は迷わず即答した。

 マーシーの釈放記念パーティー。マッドファミリーの歴史に残る傑作中の傑作だ。
 主人公ピーターの叔母であるマーシーは、宝石店強盗及びドラック所持の罪でカリフォルニアの刑務所に服役していた。数年の刑期を終え、釈放されたばかりのマーシーは、ピーターが暮らすロサンゼルスの家を訪ねる。

 そしてマーシーは、自分の釈放を記念して、ホームパーティーを開くことを家族に求める。
『いい? シャバの空気ってのはね、パーティーが始まってからこそ吸えるのよ』マーシーのこの台詞は、マッドファミリーの名言の一つに数えられている。
 叔母の強い要望で、渋々パーティーを開くことにしたピーター一家。だが親戚や友達を自宅に招いた盛大なホームパーティーで、マーシーはふらふらになるまでジン・トニックを飲み、完全に酩酊する。
 理性を失ったマーシーは得意の中国拳法を披露し、弟のアルフレッド(ピーターの父親だ)を気絶させ、しまいにはショットガンをぶっ放し、天井のシャンデリアを破壊。パーティーは当事者のせいで、台無しになった。

 騒ぎを聞きつけたロサンゼルス市警は、その場でマーシーを現行犯で逮捕。マーシーのポケットには、コカインが入っていたのだ。
 結局、マーシーがシャバの空気を吸えたのはわずか半日で、またすぐに元の場所に帰っていくことになる。
 笑いあり、涙あり、なおかつちょっとビターでシリアスなこの回は、マッドファミリーの中でも屈指の人気を誇っている。

 僕が名無しの権兵衛に、マーシーの釈放記念パーティーの回を熱弁すると、彼は満足そうに笑みを浮かべ、右手を差し出した。そして一言、こう言った。「君はわかってる」
 僕も右手を伸ばし、彼と固い握手を交わした。これが名無しの権兵衛との交流が始まったきっかけだった。

 それから二日が経った今では、僕と彼の関係は、僕の部屋で大晦日の夜を過ごすにまで進展している。もちろん、紅白歌合戦は観ない。
 今、僕と彼にとって何より楽しいのは会話だった。
 時刻は夜の十時半過ぎ。年が明けるまで、あと一時間半。
 夕方のうちに風呂を済ませたから、僕はゆったりとした気分でベッドに腰掛けていた。窓の向こうでは雪が舞っているけど、そんなことはどうだっていい。

「すごいな。他にはどんなの観てる?」僕はコーラを片手に、感心して訊いた。
 僕が「すごい」と言ったのは、僕と名無しの権兵衛が好きな海外ドラマの番組がほぼ共通しているということだった。
 ジャンルはバラバラなのにも関わらず、好きな番組は一致している。シンパシーを感じずにはいられない。
「サスペンスものも好きだよ」彼はポップコーンを口に運びながら、答えた。「『スリーピングスパイ』とか、『刑事フリードマン』とか。ああ、あと『ロンリーキャッツ』も好きだね」
「『ロンリーキャッツ』は確かに最高だ」僕はうなずいた。「残念ながらシーズン3で終わっちゃったけど」
「シーズン3から脚本家が変わっちゃったからな。あれは致命的なミスだったね」
 僕はむしろシーズン3が一番好きなのだが、それは敢えて言わないでおくことにした。

 そんな調子で、僕たちは時間も忘れて話し込んでいた。
 年が明けてから数十分が経った頃、僕は思い切って訊いてみることにした。「そういえばさ、名前なんていうんだ?」
 彼は驚いたように目を丸くした。「知らなかったのか? 名無しの権兵衛だよ。長いから、権兵衛って呼んでくれて構わない」
「いや、それは便宜的なやつでさ、本名じゃないだろ?」
 彼は視線を下げた。「本名は、言えない」
「どうして?」
「ごめん、それも言えない」
「ううん」僕は腕組みした。「つまり、君は自分の名前を明かすことはできないし、その理由を説明することもできないってこと?」
「そういうことになる」と名無しの権兵衛は申し訳なさそうに言った。

 僕は肩をすくめて、訊いてみた。「CIAのスパイとか?」
「え? ドラマの話?」
「いや、そうじゃなくて君のことだよ」
「ああ、まさか」彼は笑って、顔の前で手を振った。「CIAでもKGBでもSISでもないよ。もちろん僕はただの一介の学生だよ」
「それを聞いて安心したよ」

 果たして、自分の名前を頑なに言おうとしない人間と、友好的な関係を維持できるのだろうか?
 わからない。まあ、彼が名無しの権兵衛だろうが山田太郎だろうがジョン・ドゥだろうがどうだっていい。
 しばらく数日間は様子を見てみよう。僕はそう思った。

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