見出し画像

自作短編小説『ため息の彼方』 第12(最終)話「ため息」

 その異変はパソコンの液晶画面の中で起きていた。違う、、、。そうだ、絶対に違う。

 私が変に思ったのは、液晶画面に映る写真の女性モデルだった。厳密には、その女性の服装だった。確かに写真の女性は、水色のワンピースに白いサンダルという服装だったはずだ。しかし今、その女性は白いサンダルではなく、黄色のスニーカーを履いていた。

 変だ。見間違うはずがない。私はこの記事において、いくつかの写真を元に、それらのファッションについての文章をパソコンに打ち込んでいた。しかし一番直近で文章に書いていたのは、まさしくこの写真の女性の服装についてだったのだ。だからその女性の着ていた服装を忘れることなど決してあるわけがない。

 他にも原稿には別の服装のモデル写真も添付されていたが、私は普段から仕事に使用する写真の内容は完璧に把握していた。勿論それはライターとして当然のことだとは思うが、私はそれについて一定以上の自負があった。記憶力には少し自信があるのだ。

 そして今回記事にするためのそれらの写真の中に、黄色のスニーカーを履いたモデルの写真なんて一枚もなかった。

 液晶画面の中の写真の女性の履いている靴が、確かに白いサンダルから黄色のスニーカーに変化している。やはり何度確認してもそれは黄色のスニーカーだ。

 あり得ない。いや、あり得ないことが実際に起きてしまったのだ。それにこの写真の黄色のスニーカーは、私が未来で拾って履いたあのスニーカーとそっくりだった。色、形状、デザイン、何から何まで正確に一致している。もしかして、私が未来に飛んでしまったからこそ、それが現実に何かしらの影響を与えたのだろうか。その影響が写真の中での黄色のスニーカーへの変化、、、。こうなってくると、もはやあり得なくはない。私は苦笑した。それからため息をついた。苦笑の混じったため息だった。
 
 通常ならば、その受け入れ難い事実を私は受け入れて、仕事に取り掛かることにした。これも未来の惑星に飛来してしまったという体験が、私の思考を柔軟にしているのだろう。

 事実、私はその写真のファッションを気に入っていた。白いサンダルよりも、黄色のスニーカーの方が水色のワンピースに特別な効果を与えている気がした。白いサンダルではあまりにもありきたりだったそのファッションが、黄色のスニーカーになると絶妙なバランスを持ってうまくマッチしていた。私のキーボードを打つテンポは軽快だった。文章の内容が次々に思い浮かび、字数がどんどん増えていく。これなら夕方の締め切りまでに間に合いそうだ。

 やがて私は数時間かけて記事の原稿を書き終えることができた。時刻は午後2時を回っていた。私は満足した気持ちで一杯だった。達成感とはまさにこのことを言うのだろう。網戸を通して部屋に入ってくる風が心地良かった。その風を浴びながら私は紅茶を啜った。

 それから完成した原稿の最終チェックのために、私は液晶画面をスクロールした。問題は何もなかった。液晶画面の中の変化という要素が、私の書いた原稿を完成度の高いものにしてくれていた。我ながらよく書けた、なんて思ったりした。数度のチェックを終えた後、私は担当の編集者宛に原稿を電子メールに添付して送った。そして私はこの仕事に関する全ての作業を終え、パソコンを閉じた。

 大きく伸びをした。窓の外を見ると、午前中までは曇り空だった天気が見事に晴れていた。青空の中で雲が緩やかに遊泳し、太陽がその光を地上を照らしていた。気持ちの良い午後の天気だ。私は椅子から立ち上がり、自然とベランダの方に向かった。

 網戸を開け、サンダルを履いてベランダに出た。それから私はベランダの手すりに身を預けた。よく晴れた空の下で大きな川が流れ、その水面に陽光が反射してきらきらと輝いていた。川のほとりで鳥たちが気持ち良さそうに水遊びをしていた。穏やかな風が川沿いに立ち並ぶ木々を揺らしていた。私もその風を全身に浴び、髪や衣服がはためいた。川沿いの広い道には、犬を散歩に連れて歩く人、ベビーカーを押して歩く人、ベンチに座って談笑する人、その誰もが梅雨が到来する直前の穏やかな気候に身を委ねているように見えた。

 私は開放的な気分に浸りながら、それらの光景を眺めた。ベランダから見下ろす景色は平和そのものだった。

 彼女は言っていた。これよりおよそ350年後に、地球で良くないことが起きてしまうと。そのせいで人類は地球に住むことができなくなり、他の惑星への移住を余儀なくされるのだ。350年後に地球で具体的に何が起きてしまうのかは分からない。彼女はそれについて教えてはくれなかった。

 ただ、確かに理解していることがある。それは、今の私にできることが、この平和な世界に生まれ、その時代を生きていけることに感謝をするということだ。そして精一杯今を生きることが平和に対する正しい姿勢となるのだろう。それが私の進むべき生き方だ。

 そうだ、気分転換に私も川沿いを散歩しよう。私はそう思い至って、ベランダを出て部屋に戻った。机の上は雑然と散らかっている。ファッション誌やら書類やらティーカップやら、そんなもので溢れてしまった状態だ。私は少し顔をしかめた。いいわ、散歩の後に片付けるから。帰ってきてからちゃんと整頓するから。私はそう自分に言い聞かせて、自分で納得した。

 玄関に向かった。一瞬、まさか黄色のスニーカーが玄関にあるんじゃ、、、なんて思ったりしたが、そんなことはなかった。そこに置かれてあるのは、全て私の把握している靴のみだ。本来持っているはずのない靴など、そこには一足もない。考え過ぎだったか。

 私は苦笑した。そして苦笑の混じったため息をついた。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?