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図書室の探偵③/③

 一瞬だけ、時間の流れが止まったような感覚があった。
 私はごくりと唾を飲み込んだ。「何、言ってんの……?」
 彼はちらりと私を一瞥し、窓の方に向かって教室を横断した。
 窓の傍に立つと、その先に見える青い海を眺めた。三浦海岸だ。
 私もその隣に立った。

「昼休み、唯一誰からも怪しまれずに犯行が可能なのが、南っていう君の友達なんだ」
「どうしてそうなるわけ?」彼の横顔を見つめた。「だって昼休み中、南は私と麻利とずっと一緒にいたんだよ。そんな隙があるわけない。それに、南がそんなことするわけないじゃん」
 彼はゆっくりと首を横に振った。「あったんだよ。その隙というのが、君らが昼休みにトイレに行っている間だ」
「いやだから、南もあの時トイレに……」
「いなかったんだ」
「え?」
「君らが個室に入った瞬間、彼女は音を立てないように個室から出て、急いでこの教室に戻ったんだ。教室に戻ると、君の机にかかるカバンから予算の茶封筒を抜き取り、そしてまた急いでトイレに戻った。君たち二人が個室に入っている間、彼女の声が聞こえなかったのはそれが理由だ。そしてこの行動が誰にも怪しまれずできたのは、彼女しかいない」
「どうして……?」心の底からの疑問だった。

「どうして? 考えてみてくれ。君たちは昼休み中、それぞれの机をくっつけて昼食を食べていた。だから、彼女一人だけがトイレから教室に戻り、君のカバンを開けたとしても、誰にも怪しまれはしない。君の机と自分の机が密着している状態なら、まさか君のカバンを漁っているとは誰も思わないんだよ。これが、他の生徒が君らの机に近寄り、君のカバンを物色していればさすがに不審に思われるだろう。でも、君の友達なら疑いの目で見られることはまずないんだ。
 しかも半径二メートル以内の距離には他に生徒はいないし、昼休みの教室なら周りの様子を誰も大して気にも留めない。そして、三人でトイレに行ったはずなのに、彼女一人だけが急いで教室に戻り、すぐに出ていった理由を後で訊かれたとしても、生理用ナプキンを取りに行ってたとか、最もらしい嘘をつくことができる。つまりあの時間、犯行を成し遂げられたのは、消去法的に考えてその友達しかいないというわけだ」

 私は何度も首を横に振った。「違う。そんなわけない。あの時、個室に入ってる時に南の応答がなかった理由は、そこにいなかったからってのはわかった。教室に戻ったってことが。でも瀬戸くんの言う通り、南は本当にナプキンを取りに行ってたかもしれないじゃん」
「僕は男だから詳しくはわからないが、今の時代、ナプキンはトイレに常備されてあるんじゃないか?」
 私は一瞬、返答できなかった。それから観念したように頷いた。「そう。うちの学校は、どこの女子トイレにも洗面台にナプキンが置いてある」
「だったら、実際にナプキンを取りに教室に戻る必要はなくなるな」
 ナプキンは余りがなかったから、自分のを取りに教室に行ったんじゃないか、という反論はできなかった。なぜならあの時、私もトイレに常備されているナプキンを使ったから。余りは、充分にあった。

「君たちが個室に滞在している時間はどれくらいだった? 勘違いするなよ。あくまでも推理に関する質問だからな」
「わかってるよ、そんなこと」彼から目を逸らした。「一分半……くらいかな」
「一分半もあれば、教室に戻り、君のカバンから予算を盗み、そしてまたトイレに帰ってくるのは造作もないな。二年三組とトイレの間の距離は、四組を挟んでおよそ十メートルしかない。
 それに、彼女の席は君の右後ろと、かなり近い位置にある。四時間目、君が予算をどこに仕舞ったのか、彼女はちゃんと見ていたんじゃないか? カバンの中のクリアファイル、ってね。君が先生から預かった予算の場所を正確に把握して、且つ短い間に犯行ができたのは、その南という友達だけなんだ」
 私は返事をしなかった。
「もちろん、ホームルームが始まる前の時間、君の麻利って友達が、君の予算を盗むことも物理的には不可能ではない。だけど、実行するには昼休みの時よりもずっと難易度が上がる。
 それに、やはり盗んだ犯人が放課後、なくなった予算をわざわざ一緒に探し、おまけに僕に協力してもらうことを提案するとはどうしても思えない。現実的に考えて不自然だ。よって、麻利の方は犯人ではないと断定していい」

 私はだんだんと腹が立ってきた。予算を盗んだ犯人を見つけてもらい、それを取り戻したかっただけなのに。全ては、文化祭を成功させたいというひたむきな気持ちからだった。
 なのに、目の前のこの男はさっきから私の友達ばかりを疑っている。さすがに、そろそろ我慢の限界だった。

 彼は窓に背を向けて、教室を振り返った。私も同じようにした。
「僕がその南って友達に疑いを持ったのは、文化祭の予算を一緒に探さなかったということを知ったことがきっかけだ。昼休みも部活もトイレも、いつも一緒にいる仲良しの三人のはずが、どうして放課後、一人だけで部活に向かったのか」
「だからそれは、顧問の先生に頼まれた用事が……」
 彼は右の手のひらを私に向けた。「そんなの、取ってつけたような嘘だ。なぜ部長や副部長でもない人間が、顧問から直々に用事を頼まれる? それに、普通なら君ら二人にも手伝ってほしいって頼むものじゃないか?」
「だから言ったよ、手伝おうかって。ホームルームが終わった後、一人だけで急ぐように向かおうとするから、どうしたのって聞いたら、先生から頼まれた用事があるって」
「その時の様子は? 素気ない感じだったか?」
「まあ……今考えてみれば、いつもとはちょっと違うなって。でも、それは急いでるからだと」
「違う。後ろめたかったんだ。自分が予算を盗んだ犯人である以上、君が予算がなくなっていると気づく瞬間には立ち会いたくなかった。なぜなら、それは自動的に自分も一緒に探すことになることを意味するからだ。絶対に君のカバンの中からは、それが見つからないことを知っておきながら、探すのは耐えられなかったんだ」

 思い当たることがあった。そういえばホームルームが終わった後、私と麻利が文化祭の企画について話し出すと、南は早足で教室から出ていった。
 それは話の流れから、私がカバンの中の予算を確認すると見越したから? そして私は実際に、念のためにカバンを開けて確認し、クリアファイルに挟んでいたはずの予算がないことに気がつく。
 でも、だからと言って、そんなことで南が犯人だって思えるわけがない。だって彼女は友達であると同時に、仲間でもあるのだ。やっぱり仲間を疑うなんて、私にはできない。

 彼は射るような目つきで私を見た。「現実的に犯行が可能な時間帯は昼休み。そしてその昼休みの時間に、唯一誰からも怪しまれることなく予算を盗めたのは、君の南って友達だけだ。彼女が犯人であるなら、トイレでの応答がなかったことや、放課後急ぐように一人で部活に向かった等の疑問は解消し、辻褄が合う」
 私は言葉を返せなかった。
「体育館に行って、こっそり彼女のカバンを調べてみるといい。必ず予算が入ってるはずだ」
「ふざけないでっ」自分でもびっくりするくらいの大声が出た。
 瀬戸快人は、面食らったような驚いた表情をしていた。だけど、もう歯止めは効かなかった。
「最低」彼をしっかりと睨みつけてやった。「あんたなんかに、頼むんじゃなかった」
「なんだと? 君は非難する相手を間違ってる。僕は論理的に推論を組み立てて、最も可能性がありそうな犯人を割り出した。それが君の友達だったというだけの話だ。責めるなら彼女を責めろ」
「ざっけんなっ」私は怒鳴った。「友達がいないから、平気でそんなことが言えるのよ。あんたなんか、一生図書室に篭ってればいい」
「友達なんか必要ない」彼は冷淡な顔で言った。「人は人を裏切る。だったら、最初から信用しない方がマシだ」

 もう、顔も見たくなかった。私は自分の机まで大股で歩き、カバンを引ったくるようにして取ると、そのまま扉に向かおうとした。
 するとその直後、ガラガラと向こうから扉が開いた。その先にいたのは、南だった。
 飯島南。私の友達で、卓球部の仲間。ポニーテールの彼女の目の周りは、心なしか赤く見えた。

「南」私はつぶやいた。
「凪咲」南は、今にも泣きそうな顔で私を見つめた。彼女の右手には、茶封筒が握られていた。
 南は私のところまで二、三歩歩き、私にその茶封筒を渡した。それから勢いよく頭を下げた。「ごめんなさい。文化祭のお金、私が盗ったの。ごめんなさい」
「南……どうして……?」
 南は頭を上げ、私を見た。彼女の瞳には涙が浮かんでいた。「団体戦のメンバー、先鋒の枠がまだ決まってないでしょ? 私の実力なら、もし出場できるとするならその枠しかないって思ってて。ただ、凪咲は私より強いからこのままじゃ絶対無理だろうって……それで、出来心でつい……ごめん。予算がなくなれば、凪咲は部活どころじゃなくなって、私が出場できる確率が上がるんじゃって。最低……だよね。親が卓球のコーチやってるから、そのプレッシャーもあって、もう焦って、余裕がなくなって、こんなことやっちゃった。絶対にやっちゃいけないことを……本当に、本当にごめんなさい」

 私は返す言葉が見つからなかった。瀬戸快人の言う通り、予算を盗んだ犯人は私の最も近いところにいる人間だった。
 今涙を流して、自分の罪を告白した彼女に、私はなんて声をかければいいんだろう。
 どんな言葉をかけるのが、正解なんだろう。私にはそれがわからなかった。
 だから、私は何も考えずに南を抱きしめた。彼女の体は柔らかくて、柔軟剤の良い香りがした。
「凪咲……?」
「南、よく打ち明けてくれたね。勇気出した」
「許して……くれるの?」
「当たり前じゃん。友達でしょ?」
 耳元で、南が声を抑えるようにして泣いた。私をぎゅっと握り締めた。「ごめん凪咲……ありがとう」
 気がつくと、私の目からも涙が落ちていた。

 体感的に一分くらい、私たちはそのままの状態だった。やがてどちらともなく、くっついた体を離した。
「南、これからもよろしく」私は涙を拭って、笑顔で手を差し出した。
「うん、こちらこそよろしく」南も私と同じような表情だった。泣き笑いだ。
 そうして私と南は、固い握手を結んだ。
 窓の方を見ると、そこにはもう瀬戸快人の姿はなかった。

 学校の図書室の前に立つのは、今日で二回目だった。
 一回目の時よりも、確実に私は緊張していた。謝罪と感謝、謝罪と感謝、謝罪と感謝、と私は何度も心の中で唱えながら、意を決して扉を開けた。

 一番奥の書架と書架との間の狭いスペースで、やはり瀬戸快人は椅子に座って本を読んでいた。澄ました顔で、誰も寄せ付けないような雰囲気を帯びている。
 私は恐る恐る彼の傍まで近づき、「あの、瀬戸くん」と声をかけた。
 彼は本から顔を上げなかった。
「ごめんなさい」私は頭を下げた。「ひどいこと言って、本当にごめん。瀬戸くんが正しかったのに、あんなに感情的になっちゃって」
 彼は軽く溜め息をつき、パタンと本が閉じる音が聞こえた。「別にいいよ、そんなこと。気にしてないし」

 私は顔を上げた。彼は感情というものが、一切汲み取れない表情をしていた。本当に何から何まで私と対照的だ。
「あ、あのさ。依頼金だけど」私はカバンを開け、財布を出そうとした。
「ああ、それはもう必要ない」彼は手早く手を振った。「無効だ」
「無効? なんで?」
「犯人が自分の意思で名乗り出たんだ。別にわざわざ僕が推理しなくても、犯人が判明し、予算が返ってくるのは時間の問題だった。だから、そいつは無効だ」
「瀬戸くん、ありがとう」私はもう一度頭を下げ、それからカバンのジッパーを閉じた。

「その南って友達とは、縁を切ったのか?」
「はあ? なけわないでしょう? これからも友達であり、仲間でいるつもりだけど?」
 彼は鼻で笑った。
「何よ」
「別に」
「なあんか、言いたいことがありそうな感じね」彼をじーっと睨んだ。
「じゃあ言わせてもらおう。君は詐欺に引っかかりやすそうなタイプだから、これは僕からの忠告だ。いいか? 人を信じることと同じくらい、人を疑うことは大切なんだ。世の中、綺麗事だけじゃ問題は解決しない」
「それは……今日のことでなんとなくわかった気がする」
「そうか、ならいい」

 私はパンと手を叩いた。「あ、そうだ。瀬戸くんさ、私と友達になってくれない?」
 一瞬だけ沈黙があった。「はあ?」
「ねっ、いいじゃん。なろうよ」私はスカートのポケットから、スマホを取り出した。「これも何かの縁だしさ、連絡先教えてよ。ねっ、お願い」
 彼はしっかりと溜め息をつき、面倒くさそうな様子でズボンのポケットから、スマホを抜き取った。

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