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自作短編小説『ため息の彼方』 第11話「電話」

 都市の上空は夜明けの空が浮かんでいた。辺りは高層ビルの照明でやはり明るかった。空気は少し冷たかった。私はポケットから彼女の描いてくれた地図を取り出した。ここからその公立図書館は大した距離ではないらしい。私はその地図を持って、目的地まで歩き出した。

 通りには、先程より人も車も幾分増えていた。歩道にスーツ姿の男女が往来し、車道からは時折クラクションが鳴った。誰もが少し急いでいるような雰囲気だった。断続的な風に吹かれた通りの街路樹が、それらの雰囲気を助長しているような気配さえあった。地球で見慣れたその早朝の光景に、私はなぜだか安心感を覚えた。そんな幾分騒々しい間隙を、私は地図を確認しながら歩いて行った。

 やがて私は目的の広場にたどり着いた。広場の地面はグレーの煉瓦で敷設され、そこには誰の姿もなかった。その閑散とした空間は寂寥感さえ漂っているような気がした。そしてその先に公立図書館が建っていた。

 「これが図書館、、、?」と私は思わず呟いた。
それは、都市の高層ビル群と全く同じ外観の建築物だった。周囲のビルの高さより少し低めではあったが、それが本当に図書館であるのかと懐疑してしまうほどだった。しかし地図上にはそこが図書館であるという表記がちゃんとされてある。実際にその手前には広場がある。どれほどの蔵書数を備えているのかとても見当がつかないが、そこが図書館であるということに間違いはなさそうだった。私は地図をポケットにしまい、足を踏み出した。

 私は高層ビルの外観をした図書館の手前の広場を歩き、やがてすぐに目的の電話ボックスを見つけた。オレンジの外観をした電話ボックスだったため、それは一際目立っていた。グレーに包まれた都市の中で、そのオレンジは確かな存在感を放っていた。その電話ボックスは広場の左奥に設置されており、私はそちらまで歩いた。

 やがて私は電話ボックスの前に立った。この電話ボックスを利用すれば私は過去の世界へと、、、。緊張が込み上げてきた。胸の鼓動が早まっていた。私は意を決して扉を開け、その中に入った。

 電話ボックスの中は、どこかしら空気の質が外とは異なっていた。空気の層が薄いわけでも厚いわけでもない。温度が低いわけでも高いわけでもない。ただ何かが決定的に違った。ただし私にはその決定的な違いを見極めることはできなかった。しかしその空気の質は私の緊張を解きほぐしてくれるのような類の包容性が含まれているような気がした。

 外観と同様に、中にはオレンジの電話機があった。電話機には、0から9の数字が割り当てられたプッシュボタンが配置され、そのプッシュボタンの上に横長の液晶パネルが嵌め込まれてあった。液晶パネルの中には『ERA』と表記されたスペースと、その下に『NUMBER』と表記されたスペースがあった。それぞれのスペースに、入力した年月日と電話番号が表示されるのだろう。

 私はポケットから銀色の硬貨を取り出した。そして頭の中で彼女の言葉を思い出した。
『電話をかける際には、繋がりたい相手を強くイメージして発信するのよ。それから帰りたいという意識をちゃんと持った方が良い気がするわ。あなたが眠ってしまう前、つまりこちらの世界に来訪してしまう直前の自分自身を思い浮かべて、それを強く意識するの』

 私は彼女の助言通り、その時の自分自身を強く思い浮かべ、帰りたいという意識を強く持った。その状態を保ちながら、私は左手で受話器を取った。それから右手で硬貨をスロットに投入した。そして私のいた世界の年月日を入力するために、慎重にプッシュボタンを押していった。液晶パネルの『ERA』のスペースには、『562024』と表示された。その数字は2024年6月5日を意味している。日本で使われるような表記とは全く逆の順序だ。それから同じように私は自宅の電話番号を入力していった。『NUMBER』のスペースにも、間違いなく私の自宅の電話番号が表示された。私はイメージを強く意識しながら、それらの作業を行った。

 そして私は緊張の面持ちで待った。しかし受話器から呼び出し音は鳴っていない。電話ボックスの中は完全な静寂だ。私の心に一気に不安の波が襲ってきた。このまま帰ることができなかったらどうしよう、そんな不安に私は苛まれた。しかしその不安の中でも、私は重要なイメージを忘れることはなかった。不安と希望の二つが私の心に同居していた。そしてそれは突然鳴り出した。

 受話器からそれまでの静寂を切り裂くように、呼び出し音が電話ボックス内に鳴り響いた。その音に私は少し驚いてしまった。呼び出し音は私の不安を吹き飛ばすように、確固たる意思を持っているような気配があった。本当に、過去の私の部屋へと繋がっているのだろうか。

 何度目かの呼び出し音が鳴った後、私自身に変化が起きた。私の視界はぐらつき、周囲の景色は歪み、脳内に様々な音が反響した。私の身体の感覚が徐々に遠のいていった。それはアルコールを摂取した際の泥酔の状態に似ていた。私はアルコールにはすこぶる弱かった。しかしその状態は、それよりさらに強烈だった。私のあらゆる現実的な感覚が薄れていった。そして私はそれ以上意識を維持することができなくなっていた。私はどこかずっと遠くへ。遠くの世界へ、、、。

 気が付くと、私は机にうつ伏せになっていた。朧気な意識の中で、電話の音が鳴り響いているのが聞こえた。

 「う、、、」私は机から顔を上げた。そこは紛れもなく私の部屋だった。いつもと変わらない、私の部屋だ。背後から固定電話の着信音が鳴っていたが、私の意識はまだ不完全だったので、立ち上がることができなかった。やがて着信音が鳴り止んだ。

 「夢、、、」と私は呟いた。さっきまで体験した出来事は夢?壮大な夢だったが、夢の中の感覚は現実のそれだった。そこには確かなリアリティがあった。私は朧気な意識を必死に呼び戻し、正面のパソコンを見つめた。液晶画面の片隅には、午前10時32分と表示されていた。私は目を見張った。

 まさか、、、。確か、私が眠りに落ちてしまう直前の時刻が午前10時32分ではなかったか?何時間も眠った感覚があるのに時刻は全く変わっていない。あの壮大な夢の中にいた間、現実には1分の時間も経っていないというのか。時間的な感覚が麻痺していた。私は信じられないといった表情で、液晶画面を眺めた。その直後、表示は午前10時33分に変わった。

 あれは、もしかして現実だったのか?確かに何時間も眠っていたような感覚があった。しかし現実には1分も経過していない。たったの1分未満であんなに壮大な夢を見るだろうか。本当に、私は501年後の別世界に、、、。

 足下を見ると、黄色のスニーカーは履いていなかった。白い靴下の状態だ。カーテンの向こうの景色も、たまに青色を孕んだ曇り空でそこに変化はなかった。私の意識は完全に現実感を取り戻していた。私は立ち上がり、背後の固定電話に向かった。

 着信履歴を確認すると、今日の着信はまだ1件のみだった。その1件が、たった今かかってきていたものだった。その履歴は2024年6月5日午前10時32分と表示していた。私がまさに居眠りをしようとしていた際にも、電話がかかってきていた。そしてその時間帯は午前10時32分だった。ということは、眠る直前ににかかってきた電話と、たった今起きた直後にかかっていた電話は同一ということになる。そして、この電話は未来の私自身がかけた電話、、、。

 もはやそう考えるしかなかった。501年後の未来の私がこの部屋に電話をかけ、そしてこの501年前の私の部屋に帰ってこれたのだ。

 そうだ、私は帰ってくることができたのだ。その瞬間、私はこれまでの出来事が現実であったと確信することができた。私は最初から、未来の私と繋がっていたのだ。液晶画面の表示時刻と固定電話の着信という不可解な事実が、これまでのことが現実であったと立証するに値していた。私が未来に飛来して、そして飛来する前と全く同じ時間に帰ってこれたからこそ、現実には1分の時間も経過していなかったのだ。だからこそ、未来で何時間と過ごした事実はこの世界に反映されていないのだ。

 そう考えると理屈が通った。私がこれまで体験した出来事は、私の脳裏にしっかりと刻まれている。あの未来の世界における、記憶、感触、感覚は鮮明に残っている。そこには何の隔たりもなかった。

 状況証拠だけではない。直感で分かる。あれは現実だったのだと。私は本当に501年後の未来に行き、そして帰ってくることができたのだ。私はそれを強く実感した。それも全てはあの女性のおかげだ。彼女には感謝しかなかった。彼女があちらの世界にいたからこそ、私はこちらの世界に帰還することができたのだ。私の恩人であり、友人であり、そして一生忘れることのない存在。それが彼女だ。この気持ちが501年後の地球とはかけ離れた惑星に届くかどうかに関わらず、私は彼女に心から深く感謝した。

 やがて私は机の方を振り返り、そちらに向かった。机の椅子に座って、パソコンに向かった。
「仕事やらなくちゃ」私にはこちらの世界でだって、やらないといけないことの山積みなのだ。無事に帰ってこれたという感傷に、浸っている余裕は今はない。とにかく、今は私に降りかかってきている問題を解決しなくてはならない。何とか原稿を仕上げなくてはならないのだ。

 キーボードに手を置こうとした時、涼しい風が網戸を通して部屋に入ってきた。その風に共鳴するかのようにカーテンも安穏と揺れた。こういった事象は私の気分を落ち着かせてはくれるが、眠たい時にその眠気を促進させるような難点があった。しかし今、私の眠気は完全に吹き飛んでいた。私はやる気に満ち溢れていた。この状態なら納得のいく文章に仕上がりそうだ。

 私はキーボードに手を置き、続きの文章を打ち込もうとした。その直後、私はとある異変に気付いた。


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