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短編小説「宇宙飛行士と怪現象」

 住宅から漏れる明かりが、窓のそばを通り過ぎていく。
 揺れる列車の中、わたしと薫は愚痴を言い合っていた。

「一年生、やる気あんのかな?」女子バスケ部部長、薫が口を尖らせて言う。
「ほんとだよ。気合が足りないんだよね。いまいち熱意が感じられないっていうか」同じく女子バスケ部副部長、わたしがしかめっ面をして言った。
「でしょう? あの感じじゃ、インハイ予選すら怪しいと思うわ」

 今年の夏、わたしたちの高校はインターハイ予選を勝ち上がり、晴れて全国大会に出場したものの、あえなく一回戦で敗退。
 同時に三年生は引退し、二年のわたしたちにバトンが引き継がれた。
 そして月日は流れ、現在、十二月。インターハイ開幕まで、残り半年。

 列車が無人の小さな駅舎、上総村上かずさむらかみ駅に停車した。定期券を車掌に見せ、わたしと薫は揃って降りる。二人とも、家が近所の幼馴染だ。
 スマホの画面を見ると、時間は夜の八時を過ぎていた。この時間、この駅に降りるのは大抵わたしたちの二人だけ。
 今夜も、わたしたち以外に降りる乗客はいなかった。

 外の空気は冷え込んでいて、身震いするほど寒かった。
 列車が過ぎ去ると、辺りは一気に静まり返り、ここが一日の利用者が百人にも満たない、古くて小さな無人の駅舎であることを実感する。

 ホームに背を向けて、駅舎に入る前、「じゃあ、また明日ね。バイバイ」とわたしはベンチに座っている宇宙飛行士に手を振って言った。
 宇宙飛行士といっても、それはもちろん生身の人間ではなくて、なんでも外国のアーティストが制作した芸術作品らしい。

 アタッシュケースに手を掛け、ベンチに腰を下ろして列車を待ち続ける宇宙飛行士。
 でも、彼が待っているのは五井ごい方面でも上総中野かずさなかの方面の列車でもなくて、月行きの列車だ。そういうバックストーリーがあるのを、前に駅舎に掲示された説明文を読んで知ったのだ。
 ちなみに、わたしは彼のことを「うっちー」と呼んでいる。
 宇宙飛行士だから、うっちー。安直な発想だけど、我ながら可愛らしいネーミングだと思う。

「茜、それ最近いつもやってるよね」鈍い蛍光灯の明かりで照らされた駅舎に入った時、薫が笑みを漏らして言った。
「『また明日』ってやつ?」
「そうそう。ルーティン?」
「うん」わたしは照れ笑いを浮かべた。「これやると、なんか元気出るんだよね。部活の疲れがちょっと解消する感じ」
「いいじゃん。あたしも明日からやってみよっかな」
「是非是非」

 二人で、白い息を吐きながら駅舎を出る。
「寒っ」
「寒いね」
 駅周辺は田んぼや畑が広がっていて、その間に住宅がまばらに点在する感じだ。そして人工的な灯りがあまりないこの町は、星がよく見える。
 見上げる冬の夜空は澄んでいて、オリオン座がくっきりと浮かんでいた。

 駅舎から離れようとした時、それまでの静寂を切り裂くように、電話ボックスから電話が鳴った。
 わたしたちは立ち止まり、同時に顔を見合わせた。
 薫は眉をひそめた。「なんで、公衆電話に電話がかかってくんのよ」
 わたしも顔に不安な色を浮かべた。「わかんない。こういうのって、普通あり得なくない?」
 依然、電話ボックスの中の公衆電話は、着信音を鳴り響かせている。
 ただでさえ、夜の電話ボックスというのは不気味に感じるのに、それも電話がかかってくるなんて、どう考えても恐怖倍増だ。

 夜の暗がりの中で、薫が口の端を持ち上げたのが見えた。「気にならない?」
「え、薫?」
「誰からかかってきてるのか、気になるかも」
「ならない、ならない」わたしは顔の前で大げさなほど手を振る。「ちょっとやめときなって。やばい電話だったらどうすんの」
「やばい電話って何よ? メリーさんとか?」薫は白い歯を見せ、一、二メートル先の電話ボックスに視線をやった。「あたし、ちょっと受話器取ってみる。ほら、茜も一緒に来て」

 薫はわたしの返答を待たず、迷うことなく電話ボックスの方へ歩を進める。わたしも慌てて、彼女の後についていく。
 電話ボックスの中は、人一人がやっと入れるほどのスペースだった。相変わらず、電話は鳴り続けている。
「茜、そこで待っててよ」薫はガラスの扉を開けながら、そばに立つわたしを指差した。「絶対ここから離れないで。怖いから」
「バカ、置いてくわけないでしょ」わたしは腰に手を当て、吐息をついた。
 薫は満足そうに頬を緩ませ、「友情ね」と言って、パタンと扉を閉めた。

 電話ボックスの中、控えめなライトの下で、薫が受話器を手に取り、耳に当てている。
 一体、どんな会話をしているのだろう? やや曇りがかった、ガラスの向こうの薫の表情は、どこか険しく見えた。
 三十秒か、もしくは一分か、厳密にはわからないけれど、両手を擦り合わせながら待っていると、薫は出てきた。

「ねえ、何話してたの? どうせ変な悪戯電話でしょ?」わたしは腕を組み、下唇を曲げて訊いた。
 だけど、薫はわたしの問いに応じず、私の方を見ようともしなかった。ただ少し俯き加減に、「あたし、行かなきゃ……」とだけポツリと呟くのが聞き取れた。
「え、ちょっと? どうしたの?」
 薫は、「あたし、行かなきゃ……行かなきゃ……」と囁くように呟きながら、ゆっくりと歩き出す。
「薫? 本当にどうしたの? ねえ」
 再び薫に話しかけても、やはり彼女は答えず、わたしから離れていく。

「ちょっと、薫!」
 小走りで薫に追いつき、正面から彼女の顔を見ると、わたしは息を呑んだ。
 彼女の目は、まるで何かに取り憑かれたかのように、焦点が合っていなかった。そして、「行かなきゃ……行かなきゃ……」と何度も抑揚なく呟いている。
「薫!」わたしは力一杯、彼女の肩を揺すった。「目覚まして! 何があったの? 何を聞いたの?」
 薫はわたしのことなんて視界に入らないみたいに、虚な目で、「行かなきゃ」と同じ独り言を繰り返す。見た目は薫だけど、その中身はまるで別人のようだった。
「ディズニーランド? それなら反対方向だよ!」わたしは何も考えずに、勢いに任せて言った。「うん、ディズニーなら今度行こうよ! 約束。だからさ、元の薫に戻ってよ!」

 薫は肩に掛かったわたしの手をさっと振り払い、項垂れながら、覚束ない足取りで歩いていった。
「薫……」わたしは呆然と立ち尽くして、彼女の変わり果てた後ろ姿を見ているしかなかった。
 薫は駐輪場を通り抜け、わたしからどんどん遠ざかっていく。
 薫が何を聞いてしまったのかはわからない。それでも、電話ボックスでの通話をきっかけに、おかしくなってしまったことだけははっきりとしている。
 急に、嫌な予感が脳裏をよぎった。このままだと薫は夜の闇の中に消えて、そして二度と戻ってこないのではないか、という突拍子もない予感だ。

「薫!」瞬間、わたしは地面を蹴飛ばすようにして、走り出した。
 薫は畑道を西に折れ、雑木林の方向に真っ直ぐ歩いている。何かに誘われるように、一心不乱に。
 二、三百メートル先の雑木林は、わたしたちが子供の頃、よく肝試しに訪れていた場所だ。高校生になった今、わたしは当時の心境を鮮明に思い出していた。
 息を切らせながら、あの時の恐怖心がわたしの中に甦る。
 正面の雑木林は、北風に揺られ、闇の中で怪しげにざわめいている。

「薫、止まって!」わたしは背後から薫を抱きしめ、強引に彼女を引き留める。「あんたの家、そっちじゃないでしょ!」
「行かなきゃ……行かなきゃ……」薫の生気の感じられない声が、耳元で聞こえる。
「駄目! 帰るの!」わたしは有無を言わせない口調で、半ば叫ぶように言った。「絶対行かせない」
 薫はわたしを引き離そうとしているが、わたしは何が何でも彼女から離れるつもりはなかった。

 そんなふうに、正気を失った薫と押し問答を繰り広げていると、闇に覆われた畑道の向こうから、誰かの足音が聞こえてきた。
 女性ものの、コツコツと響き渡るヒールの音だ。靴音は真っ直ぐに、わたしたちの方向へ向かってきている。
 やがてわたしは薫の肩越しに、"それ"を視界に捉えた。
 全身に鳥肌が立った。そして絶句した。悲鳴を上げることさえも忘れるほど、わたしは恐怖に支配されていた。

 ひと目見て、人間じゃないとわかった。
 闇の中から姿を現したのは、身長が五メートルはあるであろう、細長く巨大な女性だった。
 十数メートル先からヒールの音を響かせながら、淀みなくわたしたちの方へ歩いてきている。
 その女性が明白に異常だと感じる点は、その人間離れした体格だけではなかった。

 真っ黒なドレスのようなものを着た女性は、狂ったようにあらゆる角度に首を振りながら、耳を塞ぎたくなるほどの不快な唸り声を発していた。
 そして顔には、モザイクのようなものがかかっていた。よくテレビの街頭インタビューとか、警察のドキュメンタリー番組とかで見られるようなあのモザイクが、顔の前にぴたっと仮面のように張り付き、塞がっていた。

「何、あれ……?」
 薫がわたしの腕を振り解こうと体を揺らしながら、引き寄せられるように前に進もうとしていた。まるであの女性との出会いをずっと待ち望んでいたみたいに、「行かなきゃ……行かなきゃ……」と呟きながら、足を引き摺って踏み出している。
「駄目! 薫、絶対駄目!」わたしは彼女に必死にしがみつきながら、怒鳴った。「帰るの! 今すぐに!」
 本音を言えば、今すぐにでもここから逃げ出したかった。一定の歩調で近づいてくるあいつから、少しでも離れたかった。
 だけどそれは、同時に薫を見捨てることを意味する。
 わたしがここで彼女を置いて、自分一人で行ってしまえば、多分、薫は二度と戻ってこない。あいつが薫をどこかに連れ去ってしまう。

 歯はガチガチ震えるし、涙は溢れるし、正直、おしっこも漏らしそうでもうめちゃくちゃだけど、親友を、仲間を裏切るなんてことは、わたしには絶対にできなかった。
 あいつとの距離が、数メートルまで縮んでいた。
「こっちに来んな!」わたしは喉が痛くなるほど怒鳴りつけた。「帰れよ! わたしたちに関わんないでってば!」
 わたしの渾身の叱責も虚しく、あいつは電信柱みたいに長くて、ポッキーみたいに細い両足を交互に動かしながら、刻々と迫ってきている。
 わたしは薫の背中に顔をうずめるようにして、無我夢中で祈った。「誰か、助けて……お願い……」

 その瞬間、ふとヒールの音が止まった。
 そして立ち止まったのは、あいつだけではなかった。薫の足も止まっていた。
 おもむろに顔を上げると、細い道が明るく照らし出されていることに気がついた。
 街灯とは比べ物にならないほどの明るさだ。視界の端で、白い光が煌々と輝いている。

 願いが届き、助けが来たのだと思い、わたしはぱっと振り返った。
 眩しさに目を細めながら後方をじっと見ると、そこにいたのは宇宙飛行士だった。
 宇宙飛行士は不思議な白い光の中、わたしたちの少し後ろに立っていた。
 真っ白な宇宙服、頭を完全に覆い隠す黒いヘルメット。そして片手には、アタッシュケースを持っている。
 上総村上駅のベンチに座っているはずの、あの宇宙飛行士の見た目とそっくりだった。

「うっちー……?」
 宇宙飛行士は一等星のように強い輝きを放つ、眩い光を纏いながら歩き出した。
 彼はわたしたちのそばを通り過ぎ、あいつに向かって一直線に突き進んでいく。
 一方で、あいつは啜り泣くような声を発しながら、よろけるように後ずさっていく。宇宙飛行士が前進するたびに、あいつは後退していった。
 だけど、宇宙飛行士の歩くスピードはあいつよりも速かった。そしてその歩調からは、どんな危険や困難も恐れない勇敢さが感じられた。

 宇宙飛行士が歩を進めるほどに、彼の放つ白い光が、あいつを覆う真っ黒な闇を貫いていった。
 やがて宇宙飛行士は悠然と右手を伸ばし、あいつに触れた。
 すると、あいつは耳が痛くなるほどの鋭い金切り声を上げ、煙のようにふっと消えた。

 宇宙飛行士はゆっくりとこちらを振り向き、わたしたちを見つめていた。
「う……」不意に耳元から、薫の呻き声が聞こえた。
「薫?」わたしは反射的に、彼女の顔を覗き込んだ。
 薫はゆっくりと目を瞬かせ、眉間に皺を寄せた。「茜……? どうしたの? 大丈夫?」
 わたしは信じられないといったふうに、大きく首を横に振った。「ちょっと、それ……こっちの台詞なんですけど!」
「はあ? 何怒ってんの?」薫は眉尻を下げ、苦笑いを浮かべて訊く。

 気がつくと、辺りは再び夜の闇に包まれていた。
 顔を上げて雑木林の方向に視線をやると、もう道の先に宇宙飛行士の姿はなかった。

 翌日の早朝、わたしと薫は上総村上駅までの道のりを、大急ぎで走っていた。
 辺りはまだ暗く、道の先に街灯の明かりが連なっている。

 部活の朝練のため、始発に乗らなくてはならないのだが、上り列車の到着までにギリギリ間に合うかどうかといったところだ。
 いつもは余裕を持って家を出るわたしも薫も、今日は珍しく二人とも寝坊していた。

「ねえっ、昨夜のこと、やっぱり信じられないんだけどっ」息を弾ませながら、薫がわたしに視線を向ける。「本当に全然覚えてないし、茜の作り話とかじゃないの?」
「ちょっと、嘘でしょ?」わたしは目を見開いて、薫の顔を凝視した。「信じらんない、わたしがどれだけ心配したと思ってんの?」
「はいはい、ありがとう」薫は苦々しく笑う。「モザイクがかかった巨人の女性から、わたしを守ってくれたんでしょ?」
「だから、守ったのはわたしじゃなくて、うっちーだってば」わたしは唇をへの字に曲げて、すかさず訂正する。
「なあんか、釈然としないんだよなあ」
 この、恩知らず。

 駅舎を走り抜けた時、ちょうど列車が到着するところだった。ギリギリセーフだ。
 わたしはベンチに座っている宇宙飛行士のうっちーに向かって、「昨日はありがと!」と声をかけて、ホームに立つ。
 当然、彼からの反応はない。ベンチに座って、東の空を見つめているだけ。
 わたしの隣で、「ありがとね、うっちー」と薫が続けて言った。
 わたしと薫は目を合わせ、同時にクスッと笑みを漏らした。

 列車が停車し、扉が開く。
 空は暗く、どんよりと曇っているけれど、わたしたちは晴れやかな気分で乗り込んだ。

〈了〉

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