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自作短編小説『ため息の彼方』 第2話「リアリティ」

 ふと気付くと、私は横になっていた。しかしそこは私の部屋の床の上ではなかった。そこは砂の上だった。どこからか波の音が聞こえるのに私は気付いた。顔を上げると、前方の少し先に海が広がっていた。それは暗い青色をした海だった。そして上空には夜明けの空が浮かんでいた。私は自分が砂浜に横たわっていることに気付いた。

 私は上体を起こした。風は吹いていないが、少し肌寒かった。私はベージュのブラウスに、青のジーンズ、白い靴下、と先程自分の部屋にいた際と全く同じ服装だった。靴は勿論履いていなかった。前方に広がる海を眺めながら、私は今夢の中にいるのだということをすぐに理解した。だから自分の部屋から夜明けの砂浜に移動していたとしても、不思議なことは何もないと思った。

 しかし何か妙な違和感があった。いつもの夢の中における感覚とは違うような、そんな違和感が私の心を捕らえて離さなかった。私はすぐにその違和感の正体に気付いた。現実と夢の中間に介在するような意識の隔たりがないのだ。つい先程まで私が部屋にいた際の記憶、思考、感覚は、この夢の中でも鮮明に引き継いでいた。ここは本当に夢なのか。そう感じてしまうほど、私が今感じる全ての感触にリアリティがあった。私は首を傾げた。こんな感覚は今までになかったからだ。

 これまで私が自宅の部屋で襲われていた眠気はすっかり消えていた。意識ははっきりとしている。だから余計に、ここが本当に夢であるのだろうかという疑念が私の心にずっと浮遊していた。しかし私はそれについて考えることを一旦やめた。私は自分を取り巻く景色に見惚れ始めていた。

 前方に広がる海の手前には、泥の湿地帯があった。所々に草花が点在したその湿地帯は、海に向けて下るように広がっていた。それは緩やかな丘陵となっていた。さらにその湿地帯の手前に、私のいる砂浜があった。正面の海は暗い青色の中で、湿地帯の泥を孕んでいるように見受けられた。海は静謐な波の音を放っていたが、同時にどことなく近寄り難い不気味な雰囲気も放っていた。海の上には夜明けの空が浮かび、朝の到来を予期させるように、暗い青紫と燃えるような赤のコントラストが融解していた。海はかすかにその夜明けの色合いを滲ませていた。私の位置から海までは概ね30メートル以上の距離があるように思われた。私は後ろを振り返った。反対側の光景は全くと言っていいほど対照的だった。私はその景色に困惑した。

 背後の空は完全な夜だった。その夜空の中に、大小様々な惑星が浮かんでいた。少なくともそれらは、私の知る太陽系の惑星ではなかった。多種多様な色や模様の惑星がそれぞれの位置に散らばり、夜空に静止していた。それらの惑星の周りを無数の星々が囲んでいた。そんな夜空の下には、無数の高層ビルが整然と直立していた。それらの高層ビル群は見渡す限り全ての色がグレーに統一されており、高さはどの建物も100メートル以上を超えているように思われた。その殆どの高層建築物は、屋上の部分から銀色の照明の光を放っていた。その無数の光が銀色に輝く都市の景観を創り出していた。その照明に照らされた夜空の下腹部は、薄いグレーの色を反映させていた。銀色の都市はどこまでも果てしなく永久に広がっていた。左右から奥に至るまで、見渡す限り永続的な都市の景観だった。

 高層ビル群の手前には、下方に巨大な林が広がっていた。最前列に直立する高層ビル群の根本の辺りに、それは雄大に佇んでいた。その高さは15メートルはありそうだった。その林は高層ビル群と同様に、左右の地平線の果てまで続いていた。その巨大な林は左右に広大に伸びてはいるが、手前のビル群に至るまでの直線距離は大してないように思われた。概算して、150メートル弱の距離だろうか。私のいる砂浜からその林の入り口までの距離も、同程度の距離だと私は推定した。

 海の上に浮かぶ夜明けの空と、反対に都市の上に浮かぶ夜空の間に、私は挟まれる形だった。その二つの対照的な空の中間に位置する空は、それぞれの色を絵の具で溶かしたように混じり合っていた。私はそれらのあまりに奇妙で壮大な光景に、しばらくその場で見惚れていた。

 やがて少し先の砂浜に、黄色い物体があることに私は気付いた。私から向かって、銀色に輝く都市の方向にその物体は佇んでいた。私は立ち上がって、そちらの方へと歩き出した。その物体の正体が知りたくなったのだ。背後では波の音が静かに響き渡っていた。私は何となくではあるが、その海から少しでも離れたいという観念に囚われていた。あまり海には近づかないほうが良いというような感覚が私の中にはあった。

 少し歩くと、その正体が判明した。砂浜の上に落ちていたのは、黄色のスニーカーだった。黄色を基調としたシンプルなデザインのスニーカーだ。それは見た限り、新品そのものだった。サイズは私が普段履いている靴とかなり近いようだ。なぜだか私はそのスニーカーに魅了されていた。私は靴下のみを履いている状況だった。まるでそのスニーカーは、砂浜の上で私が靴下である状態を誰かが見計らってそこに置いてくれたとでも言わんばかりに、私の方に向けて二足綺麗に揃っていた。

 私は腰を屈め、その靴を履くことにした。左足をその靴に入れてみると、すぐにぴったりと一致することが分かった。右足も同じように履いてみた。やはりサイズは私にぴったりだった。自分のためにこのスニーカーが用意されたのではないのかと、本気で錯覚するくらいにそれは私の足のサイズに正確に符号していた。私は幾分満足した気持ちで、靴紐を結び始めた。

 その時だった。二つの靴紐を結び終えた直後、突然背後から巨大な波の音が響き出した。それはかつての静謐さを粉砕するかのような轟音だった。私は振り返らなかった。何か、海の方を振り返ってはならないという予感が私の思考に強く警告していた。私の視線は都市の方にあった。ただ黙ってその場にしゃがみ込んでいた。

 後方から、突発的に強い風が吹き込んできた。先ほどまで無風だったはずの辺りには、強風が吹き荒れ、前方の巨大な林を揺らした。私は自分の身体が動かないことに気付いた。まるで金縛りに遭ったとでもいうように、私はただそこに静止していることしかできなかった。

 やがて背後の海から気配がした。波の轟音と共に、何かが海から出現していることが背中を通して分かった。その気配は一つではなかった。複数の不気味な気配が、海の方から一斉に感じ取ることができた。その気配を放つ何かは、続々と海から出現していた。私の思考は恐怖で支配されていた。複数の得体の知れない存在は、背後の海からゆっくりと一斉に歩き出していることが分かった。


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