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【ショートショート】中華料理店にて

 営業先との商談に失敗した帰り、俺と高橋は近くにある中華料理店に寄った。

 失敗して落ち込んだとしても、空腹は満たす必要がある。
 そうでなければ、午後から始まる別の営業は乗り越えられないのだ。

 俺たちは店の一番奥にある壁際のテーブル席に腰を下ろし、俺は五目そばと炒飯、高橋は酢豚と天津飯を注文した。

 小ぢんまりとした店内には、カウンター席と四つのテーブル席が配置されており、俺たちの他に客の姿はなかった。
 内装はお世辞にもあまり綺麗とは言い難く、テーブル、壁、床、天井と至る所に汚れが目立っている。
 壁には色褪せたメニュー表とポスターが貼られており、ポスターには着物を着た笑顔の女性が両手で瓶ビールを持っていた。

「まあ、そう落ち込むなよ」俺はグラスを取って水を一口飲んだ。「あんまり気落ちし過ぎると、午後に響くぞ」
「はい……でも、絶対いけると思ったんですよ。ちゃんとプレゼンも入念に準備して、想定通りに話せたと思ったもので」
「しょうがないさ。競合他社の方がうちよりずっと格安だったんだから。うちとしても、これ以上の値下げは不可能だったしな」
「はい……そうですね」
 高橋はそう言って、水を飲んだ。
 今日は経験も兼ねて、新人の高橋が中心になって営業をやることになっていた。だが、今のところ結果は惨敗だ。

 十分も経たないうちに、注文した品が届いた。
「はい、五目そばと炒飯に、酢豚と天津飯ですね」エプロンをした老年の女性が言った。
 厨房には同じほどの年齢の男性が作業をしている。夫婦で切り盛りをしているらしい。

 俺たちは礼を言い、食事を開始した。
「美味いっすね」高橋は天津飯を頬張りながら言った。
「ああ、いけるな」俺は炒飯を咀嚼しながら言った。それから五目そばを啜った。

 およそ十五分で、俺たちはテーブルの上の料理を平らげた。
「こんなに美味い中華、久々に食いましたよ、俺」
「こういう年季の入った店に限って、すげえ美味かったりするんだよな」
「ですね。お昼の時間に我々しか客がいないのが不思議なくらいですよ」
「ほんと、ほんと。何でなんだろうな」

 レジで会計をする際、高橋の分も一緒に払ってやった。
「え、いいんですか?」
「今日は奢りだ。その代わり、この後の商談頼むぞ。期待してるからな」
「はいっ」

 扉に手をかけて店を出ようとした時、「あっ、ちょっとお待ちくださいっ」と店の女性から慌てたように呼び止められた。
「え?」俺は後ろを振り返った。
 女性は強張った表情になっていた。「今、絶対に扉を開けないでください。店の前に、あれが通っていますんで」
「あれ?」俺と高橋は扉の方を見やった。
 磨りガラスの先で、何人もの黒い人影が次々と通り過ぎていく。どの人影も歩き方がおかしい。跳ねるように、一歩ずつ前に進んでいく形だ。

「何です、これ?」高橋が訊いた。
「キョンシーです」
「キョンシー?」
「料理の匂いにつられて、偶に店の前を通りかかるんですよ。完全に通り過ぎるまで、どうか中でお待ちください」
 俺は高橋と目を合わせ、それからまた磨りガラスの先を見た。

 黒い人影が規則的な歩調で、店の前を横切っている。同じタイミングで、機械的に足音が重なる。
 その姿は曖昧で判然としないが、彼女によるとこれはキョンシーの集団らしい。

 俺は唾をごくりと呑み込んだ。「開けてしまうと、どうなるんですか?」
「わかりません。開けたことがないもので」
「殺されてしまうだろうね」厨房の方から声がした。「少なくとも妖怪だから、無事には済まないだろう」
 店主の男性はこちらを見ずに、淡々と調理場で作業をしていた。

 数秒後、磨りガラスの先には何の姿も見えなくなり、足音も聞こえなくなった。
「はい、もう大丈夫ですよ。お帰りなさって結構でございます」
 俺は小さく頷き、恐る恐る扉を開けた。
 扉の向こうには、平穏な午後の街の風景が広がっているだけだった。歩道を通行人が行き交い、交差点を車が行き交っている。

 俺と高橋は店を出て、隣の駐車場に停めてあったカローラに乗り込んだ。
 俺が運転席で、高橋は助手席だ。車を発進させ、交通の流れに乗った。

 道を右折して、ルームミラーにあの店が見えなくなった時、高橋が訊いた。「何なんですか、あれ? キョンシーって実在したんですか? もう訳わかんないっすよ」
 俺は小さく溜め息をついた。「俺に聞くなよ。俺だってお前と同じで混乱してるんだから」
「すみません。でも、あれ何かの悪い冗談ですよね? 店が客を驚かすための」
「あの夫婦を見る限り、そんな感じには思えなかったけどなあ。そもそも、そんなことをするメリットがない」
「まあ、そうですよね」
「だけど、一つだけはっきりしたことがある」
「何ですか?」
「あの店に俺たちしか客がいなかったこと。料理は美味しいし、値段も安かった。それなのに店はガラガラだったろ」
「はい、あ……それって」
「いくら美味しくても、キョンシーが出没する中華料理店には、客は足を運びづらいよな」

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