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自作短編小説『ため息の彼方』 第3話「焦燥」

 やはり私は動けなかった。そこに完全に固定された状態だ。それどころか、その金縛りの強度はますます強固なものになっている気がした。

 背中に複数の視線を私は感じていた。海から突如現れた複数の何かによる不気味な視線だった。そしてそれらは、海を離れて少しずつこちらに近づいて来ているようだった。その様子は、泥の湿地帯を歩く粘着性を含ませた足音で分かった。後方からそれらの足音が、同時的に響いていた。私の心拍数はどんどん上昇し、恐怖が私の心を埋め尽くした。
 
 かろうじて首は動かせそうだった。私は少しずつこちらに近い付いてくる、複数の得体の知れない存在が何なのかを知りたくなった。恐怖の中でも好奇心には敗北するらしい。振り返らない方が良いことは感覚的に理解していた。それでもその正体を見極めたいという観念が、私の思考から消えてはくれなかった。

 私は意を決して振り返ろうとした。その直後、前方の都市から強烈な視線を感じた。今度は、視界の右端にある高層ビル群の一つから発せられたようだった。私はその視線を辿ってみた。やがてその視線の出どころが、都市の中でも群を抜いて高い建物からであることが分かった。周囲で一際高いその建物は、手前に建っている二つの高層ビルの高さを優に超えていた。その突き出した上半身のとある一室から、誰かが私に視線を浴びせていることが分かった。私はその視線の位置を詳しく紐解いてみた。それは建物の最上階から3段目の、左端から2番目にあたる大きな窓から放たれた視線だった。夜という時間帯のせいか、その他の窓はカーテンで仕切られていたのですぐに見つけることができた。

 その窓のすぐそばに、一人の女性が立っていた。グレーのスーツらしき服を着た、ブロンドヘアーの女性だった。距離が遠いために表情までは読み取れないが、その女性は私に向かって左右に首を振っていた。そのメッセージはすぐに分かった。『海の方を振り返るな』と私に伝えているのだ。それから彼女は何度も手招きをした。今度のメッセージも同様に分かった。『こちらへ来い』と私に呼びかけているのだ。彼女のメッセージは簡潔で明瞭だった。

 私は身体を動かせることに気付いた。なぜだか分からないが、先ほどの金縛りは解けているようだった。私は立ち上がった。背後の複数の足音はさらに大きくなっていた。私は振り返らず、都市の方へと駆け出した。

 私は無我夢中で走った。脇見をすることなく、真っ直ぐ前方の都市に向かって。砂浜の上を走ることにさほど支障はなかった。たまに砂の中に片足が入り込んで、絡れそうになることはあっても何とか体勢を保って走りを維持することができた。ついさっき、初めて履いたばかりの黄色のスニーカーが私を救ってくれていた。

 とにかく後方の不気味な何かから離れたかった。それらの動きはどうやら緩慢らしく、私はどんどん距離を引き離していた。私は夜明けの空から夜空へと、時間を逆行するように走り続けた。走っている最中、あの女性が私のことを見守っていることが分かった。彼女の確固たる意思を持ったその視線は、走りながらでも知覚でき、それが私を落ち着いた気分にさせていた。

 やがて私は、都市の手前に構えた巨大な林の中へと入った。辺りは一段と暗くなった。その暗さは林の木々が創り出す陰によるものだけでなく、時間の逆行による原因も付加されていることは理解できた。

 林は海から吹き込む強風に揺られ続けていた。揺れる木々の間には人が通れる空間がしっかりと確保されていた。林の中の地面は低い草木が生い茂っており、砂浜の上を走るよりもずっと走りやすかった。やはり林から都市に至るまでの距離は大してなかった。少し走れば、すぐに抜けられる距離だ。私は息は弾んではいたが、ペースが乱れることはなかった。やがて私は今にも巨大な林から出られるという寸前で、立ち止まった。

 「嘘でしょ、、、」と私は口に出していた。巨大な林を抜けたすぐ先には、同じく巨大なコンクリートの壁が広がっていた。林はその壁よりも数メートル以上高く、木々も無数に乱立していたため、近くに行かなければその壁の存在が分からなかったのだ。無機質なグレーのコンクリートの壁は林と同様に、左右の地平線の彼方まで永久に伸びていた。私は壁を見上げた。壁の高さは、林より若干低い12、3メートルの高さだと思われた。とても私のような平均的な体力の成人女性が登れる高さではない。いや、どんな人間にだってこの高さを登ることは不可能だろう。壁は威圧的にどっしりとそこに構えていた。

 私は泣きたい気持ちになった。結局は、必死に都市の方まで走ったところで無意味なことだったのだ。私は壁のすぐ目の前に立った。そして無性に苛立ってきた。仕事の締め切りに追われる日常の上に、こんな不条理な非日常は私には必要なかった。

 さらに一段と強い風が吹いて来た。そしてゆっくりと、しかしこちらに確かに近付いて来ている複数の存在が後方に感じられた。足音の種類で、それらは既に湿地帯を抜けて砂浜の上を歩いていることが分かった。私の心は焦燥感に駆られていた。恐怖と苛立ちを混じり合わせたような類いの焦燥だった。夢なら早く醒めなさいよっ、と何度も心の中で念じたが、その想いは叶わなかった。

 「何よ、こんな壁っ」と私は壁に向かって右の拳をぶつけた。八つ当たりのつもりでやったのだが、そこには予想外のことが起きた。なんと、私の右手が壁の中にするりと入り込んでしまっているのだ。壁の中へと貫通したその右手には、何の感触もなかった。空気に触れても感触がないのと同様に、この壁の中には感触という要素が欠落しているらしかった。私は困惑した。一体どんな科学的法則が働いて、こんな現象が起きてしまったのだろうか。

 しかしそれについて考えている暇はなかった。後方に響く沢山の足音はさらに大きくなっていたからだ。そもそも考えたところで、私のような科学の専門家でもない人間にそんなことが分かるはずはない。私は意を決して、同じ要領で壁に身体を突っ込んだ。私の身体は簡単に壁の中へと入り込んでいった。

 黄色のスニーカーを履いた左足を壁の中に入れてしまうと、私の身体は完全に壁の中へと移動した。そこにはやはりどんな感触もなかった。壁の中は暗闇そのものだった。私はその暗闇の中を真っ直ぐに走り、およそ数秒後、壁を抜けた。

 その先には、銀色の照明の輝きに満ちた巨大な都市が広がっていた。近くで見上げるその高層ビル群は、想定以上の高さを誇っていた。私はそれらの巨大さに半ば圧倒されていた。そしてその都市にいざなわれるように、私は歩き出して行った。


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