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計画的トマトスープ①/④

《あらすじ》美術館に届いた犯行予告文。それはルネ・マグリットの絵にトマトスープをかけるという内容だった。予知能力を持つ外岡歩は、学芸員の叔父から頼まれ、環境活動家による犯行を阻止するべく奮闘する。

 ルネ・マグリットの絵にトマトスープがぶちまけられるのを防ぐために、僕は市内の美術館の学芸員をしている叔父に呼び出されていた。

 叔父の外岡登とのおかのぼるに案内された美術館一階の事務室は狭く、薄暗く、そしてやや埃っぽかった。
 僕と叔父はソファに座り、小さなテーブルを挟んで向き合っている。
 部屋をぐるりと囲む書棚には膨大な書物が詰め込まれ、ブラインドが下ろされた窓の向こうからは油蝉の鳴き声が聞こえてくる。
 室内は冷房がしっかりと効いており、テーブルの上のブラックコーヒーの渋い匂いが鼻をくすぐった。

「来週から、うちの美術館でマグリット展が開かれるのは知ってるだろ?」叔父はブラックコーヒーを啜り、訊いてきた。
「そりゃあ、まあ」僕もガムシロップがたっぷりと入った、アイスコーヒーのグラスに口をつけた。「だって、叔父さんから訊いたからね」
「実に八年ぶりの来日だ」叔父は眼鏡の奥の目尻を下げ、口元を綻ばせた。「あゆむはあまり興味はないかもしれないが」

 歩は僕の名前で、マグリットはシュルレアリスムの画家だ。
 山高帽の男の顔が、緑のリンゴで隠された不思議な雰囲気の絵が美術の教科書に載っていたのを覚えている。
 ただ叔父の言う通り、僕は美術作品には大して関心はないし、絵心もなく、芸術的感性なんてこれっぽっちも持ち合わせてはいない。

「開催期間は、七月二十一日から九月十日まで。九月以外は、ちょうど高校の夏休みと時期が被るな。歩、夏休みの予定は?」
「特にないよ」僕は首を横に振った。長距離移動が嫌いでインドアな高校生の僕に、夏休みの予定などあるわけがなかった。
 叔父は僕の返答を聞いて、満足そうに口元を緩めた。「バイト代、欲しくないか?」
「正直、悩んではいる」僕は腕を組んで、ちらりと天井を見上げた。「確かにお金は欲しいけど、ほとんど毎日、ここに来なくちゃいけないんでしょ? それも、朝から夕方まで」
「そう。絵画鑑賞のためではなく、お客さんの監視のためにな」

 僕は肩をすくめた。「本当に、襲撃なんてあるのかな」
「実際、犯行予告が手紙で届いてるんだ」叔父はソファから立ち上がり、A5サイズの白い紙を手に戻ってきた。
 例の犯行予告文のコピーらしい。僕は叔父からそれを受け取り、パソコンで打ち込まれたものらしい文章に目を通した。昨晩、電話口で叔父から聞いた内容と概ね一致する。

『我々は怒っている。この国の政府は、未だに原発を稼働させており、国民の命を危険に晒し続けている。我々はこの夏、神奈川県立美術館に展示される予定のルネ・マグリットの絵にトマトスープをかける。これは脅迫ではない。宣言である。人命と絵画、どちらが大事なのか。あなたたちはそれを真剣に考えるべきだ。〈持続可能な英雄〉より』

 僕は眉をしかめた。「確かに僕も原発はどうかと思うけどさ、日本の原発の稼働状況と、マグリットの絵のどこに相関関係があるわけ?」
「そんなの、俺にもわからないよ」叔父は苦笑いを浮かべ、かぶりを振った。「時に歪んだ正義感ってやつは、論理性を破綻させてしまうんだろうな」
「みたいだね。それに自分で『英雄』って言っちゃうところとか、結構痛いかも」僕は犯行予告文のコピーをテーブルの上に置いた。それからアイスコーヒーを口に運び、指についた水滴をシャツの裾で拭った。

「本当に攻撃されるのかどうかはわからない」叔父は神妙な面持ちで言った。「実際はただの悪戯かもしれない。でも、ここで働いてる以上、これを見過ごすわけにはいかないよ。現に、ヨーロッパの美術館では同様のことが起きてるんだ。ゴッホ、モネ、フェルメール。いろんな名画が標的にされてる。正直、日本の環境活動家がそこまで過激なことをやるとは思えないけど、用心するに越したことはない。この手紙のせいで、どこか学芸員室の空気もピリついてるよ」
「でもさ、ガラスで保護されてるんでしょ? だったら作品自体は問題ないんじゃないの?」
「もちろん」叔父は肯定した。「確かに作品が損傷する恐れはないよ。だけど、もしもそんな事件が起きてしまったら、お客さんは不快な気分を味わうことになるし、最悪の場合、今後マグリットの作品はもう我が国にやってこないかもしれない」

 背後の扉の向こうから、コツコツと通路を歩く軽快なヒールの音が聞こえ、その足音が遠ざかると同時に、叔父は言葉を続けた。「セキュリティを強化して、手荷物検査も実施するつもりだよ。それでも、限界ってものがある」叔父は鼻に皺を寄せた。「何しろ、犯行予告文なんて送ってきてるわけだからな。よほど自信があるんだろう。敵は警備の目を掻い潜って、犯行を成し遂げようとするに違いない」
「だろうね。そしてカバンの中のコカ・コーラがただの炭酸飲料水のままか、もしくは犯行の道具に使われるかは、その人次第だろうし。まあ、この〈持続可能な英雄〉はトマトスープを使うって宣言してるけど」
「その通り」叔父は頬を緩めた。「結局のところ、ただ体裁に過ぎないんだよ。カバンの中をちょっと見せてもらって終わり。そんなんじゃ、全くもって無意味だ」

 僕はまたアイスコーヒーを喉に流した。グラスの中はもうほとんど氷だけになっていた。「〈持続可能な英雄〉が現れた場合、やっぱり複数犯なのかな? ここに『我々』って書いてあるけど」僕は犯行予告文のコピーを指差した。
 叔父は腕を組んだ。「実行犯は、どうだろうな……いや、複数犯だと思うな。ここに『我々』って書いてるし。それに、これまでの前例がそうだから。でも襲撃があるとすれば、それは歩の予知能力でわかるんじゃないか?」
 僕は無言で頷いた。

 僕には生まれつき予知能力が備わっていて、世間の印象に残るような大きな出来事を予見することができる。
 それは大体、発生の数十分前に見ることが多く、何の前触れもなく、その出来事の光景が脳内にぱっと鮮明に浮かび上がるのだ。

 叔父は僕のその能力にベットして、僕に非公式のバイトの話を内密に持ち掛けた。環境活動家による絵画攻撃を、未然に防ぐバイトだ。
 確かに、マグリットの絵にトマトスープがかけられるのは世間の話題を掻っ攫うような強烈な出来事で、もしそんなことが本当に起こるのだとすれば、予知能力が発動することはまず間違いない。

「バイト代弾むからさ、引き受けてくれないか?」
 少し考えた後、「時給はいくら?」と僕は尋ねた。
 その質問は、僕が叔父の依頼を引き受けることを意味していた。

②へつづく

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