「家事労働」からの解放と新たな人間関係の創出――シルヴィア・フェデリーチのエッセイのレビュー2

 前回に引き続き、シルヴィア・フェデリーチのRevolution at Point Zero所収のエッセイについてのレビューを行う。
 “Wages against Housework”ではいまだ不明瞭だった部分が、“Counterplanning from the Kitchen” (1975)および “The Restructuring Housework and Reproduction in the United States in the 1970s” (1980) において多少明確化されているように思う。私は前回のレビューにおいて、家事労働への賃金の支払いシステムの問題に言及をしたのであるが、それとは別にもう一つの疑問を抱いていた。前回も述べたように、家事労働賃金運動の目的は、賃金をもらうことではなく、女性に押し付けられた「家事労働」からの解放であった。そこに一つの問いが生まれる。つまり、「家事労働」を廃した世界において、人々はどのように共に生きるのか、ということである。それは単純に、これまで女性の「家事労働」を享受していた男性に押し付ければいいというものではないだろうし、あるいは先進国の女性よりも立場の低い、たとえば移民などのようなさらなるマイノリティを家政婦/夫として使役すればいい、というのでは決してないだろう(「リーン・イン」はこの立場をとるかもしれないが)。こうした問いに対して答えが明言されているわけではないが、この二つのテキストには次のような答えが示唆されているように思われる。それは、資本主義が終わるとき、家事労働は「家事労働」ではなくなる、ということである。これはたんなるレトリックではない。
 

 “Counterplanning from the Kitchen” においてフェデリーチが槍玉に挙げるのは当時の「左派」の言説である。彼らは家事労働賃金運動に対し、古典的な階級闘争の理論で応答する。彼らにとってはブルジョアジーとプロレタリアート、すなわち資本による直接の被雇用者としての労働者の対決が重要なのであって、主婦の闘争は取るに足らないものとされる。何故ならば、彼らにとっては払われる賃金があるからこそ、払われない賃金すなわち搾取が可視化されるのであって、そもそも賃金が払われていない主婦たちは、搾取されていないのと同じである(注1)。主婦にもまた苦しみがあるとすれば、それは資本の苦しみではなく、資本の欠如の苦しみである。だからこそ、「左派」にとっては「工場の門をくぐること」が女性の闘争の第一歩なのである。女性からすれば、それは「もっと搾取されよ」と言われているのと相違ないのであるが。さらにフェデリーチによれば、「左派」の主婦へのこうした態度は、彼らの第三世界に対するものとも共通しているのである。
 似たようなことは、1972年に出版された、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』においても指摘されていたように思われる。ドゥルーズ=ガタリによれば、ブルジョアジーとプロレタリアートの区別を意識的に現勢化した「レーニン主義的切断」によって、一方ではプロレタリアートのいくつかの断面が資本主義の公理系へと回収され、他方では未制御の「革命的諸要素」が周縁やその飛び地へと追いやられてしまうことになったのだ(注2)。
つまり、資本主義は時とともに包摂の範囲を広げていくが、同時に絶えず周縁をつくりだすことで搾取や収奪を行い、膨張を続ける。家事労働賃金運動を攻撃した「左派」はこうした資本主義の構造を知らず、プロレタリアートだけが革命の主体であるかのように考えている点でとても素朴である。このような素朴な階級闘争観では、資本主義がつくりだすフィクションを無批判に受け入れることになってしまう。そのフィクションとは、家族、とくに核家族という制度である。核家族という制度は資本主義にとても都合のいい制度であって、なぜならそれはその空間が資本主義にとってのフロンティア、「私的世界」であるかのように見せかけることができるからだ。しかし実際は、「私たちの生活のすべての瞬間が、資本の蓄積のために機能する(p.31)」のである。結局、主婦の「家事労働」とは、夫の賃労働の時間、資本主義の時間のもとに組み立てられるのであり、そこに自由裁量はほとんどないと言える。たとえば、月曜日の出勤のために、日曜日のうちに夫の作業着を洗濯して干しておかなければいけないし、夫が職場から帰ってくる時間に合わせて食事や風呂の準備をしておかなければならない、といったことだ。さらに主婦は夫に経済的に依存せざるを得ず、それぞれが孤立することを余儀なくされている。女性のよりどころを一つに限定すること、それが資本の思惑なのだ。


 「家事労働」からの解放とは、炊事や洗濯、掃除といった作業からの解放ではけっしてない。それは、さらなるマイノリティへの押し付けという立場を取らないのであれば、生きていくうえで避けられないものだからだ。そうではなく、「家事労働」からの解放とは、家事労働の資本主義的賃労働への従属からの解放ということなのであろう。そのとき、家事労働はより豊かで自由なものとなるだろう。少なくとも、現在ほど苦ではなくなるはずだ。
しかし、それは単独でなし得るものではない。上でも述べたように、フェデリーチの「家事労働」批判は同時に「家族」批判でもあるのであり、この両輪が重要なのである。この「家族」批判があるからこそ、フェデリーチの主張はラディカルなものになっており、また未来社会への展望も含まれたものになっているのだ。現在の「家族」観が支配する資本主義社会においては、人間関係はとても貧しいものであると言わざるを得ない。結婚を最上位に置く、異性愛、モノアモリー、モノガミーといった規範は、人間関係を狭小なものにする。資本主義の諸装置は人々の連帯を阻むものであるのだが、「家族」もまた例外ではないのだ。フェデリーチはこうした人間関係の貧困を打破し、多くのよりどころを持った豊かな人間関係の創出をもまた目指しているのである。



注1:マルクスによれば、賃労働の労働日は「必要労働時間」と「剰余労働時間」に分けられる。「必要労働時間」は1日当たりの労働力の生産に必要な生活手段を生産するための労働時間と等価の労働時間であり、賃金が支払われるのはこの部分である。他方で「剰余労働時間」は資本家がそこから利益を引き出す部分の労働時間であり、賃金は支払われない。詳しくは、カール・マルクス『資本論』第1巻第7章「剰余価値率」を参照のこと。
注2:ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 (下)』宇野邦一訳、河出文庫、2006年。また、佐藤嘉幸、廣瀬純『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』講談社選書メチエ、2017年、も参照。

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