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『雨で手を洗う』(短編小説)


あらすじ
 三年前にわかれた彼女に偶然出会い、マンションに誘われることになった男。過去に戻ろうとする男と女のすれ違いを淡く切なく描く。


『雨で手を洗う』 上田焚火


「今はつきあっている人はいないの?」

 と彼女が訊ねてきたので、「いや、いないよ」と僕は答えた。

 だからといって、彼女と何かが始まるとは思えなかった。そもそももう終わったことだった。どうしてこんな所にいるのか、その理由をなるべく考えないようにしていた。

 六本木の駅で待ち合わせをして、公園を通り抜け、彼女が住むマンションまで来ていた。僕の住んでいるボロアパートとは違い、彼女は立派なタワーマンションに住んでいた。

彼女は鞄からブランド物のキーホルダーを取り出して、オートロックの扉を開けた。

マンションのエントランスには、ふわふわしたジュータンが敷き詰められていた。いい香りがする。フロントがあればホテルと言ってもいいほどに豪華だった。僕はなるべく表情が出ないようにつとめた。こんなことで驚くつもりはないという顔だ。

「そっちのエレベーターは低層階なの。私たちの部屋へ行くのは、こっち」

 当然だが、私たち、という言葉の中に僕自身は含まれていない。そのことを改めて考えていた。あれから三年経っている。別れをきり出したのは僕の方だった。それが一週間前に偶然、表参道で再会したのだ。

 エレベーターに乗り込むと、ずらりと各階のボタンが並んでいた。彼女は三十六階のボタンを押す。それはこのマンションの最上階だった。

「確か、高いところは好きじゃなかったよな」

 僕は、記憶の中からガラクタを取り出すように彼女に言った。

「そうなの、でも、あの人、誰かの下の部屋は好きじゃないって言うの」

 あの人がいるのに、どうして僕をここに呼んだのだろうか、そして、どうして僕はここに来てしまったのだろうか。だが、そのことを口にすることは馬鹿げているように思えた。そんなことは後で一人になったときに、ゆっくりと考えればいいことだった。

「よかったじゃないか、いい人を見つけたな」と僕は言った。
「いい人なのかな・・・・・・」

 彼女は、何かを含んでいるように微笑んだ。謙遜ともとれるし、何か問題が本当にあるようにも思えた。僕は、実際にあの人に会っていないので、いい人がどうかなんて分からない。部屋の中に入ったが、どこにもあの人の写真らしきものもなかった。彼女が隠してしまったのか、それとも元々ないのか。どっちにしろ関係のないことだった。

「結婚はしないのか?」
 これも僕にとっては関係のないことだ。
「しようかなぁ~と思ってるの」
「プロポーズされたのか?」
 と僕が訊ねると、彼女は困ったような顔をして微笑んだ。別にこちらに遠慮しているわけではないだろう。油断は禁物だった。僕はカチカチに凍ったアイスバーのことを思い出そうとした。長くお店の冷蔵庫の底に眠っていたアイスバーだ。袋を開けてもギザギザの霜がついている。誰も手にしようとしなかったものだ。

 部屋は綺麗に整理されていた。大きなテレビに皮のソファ、家具はどれもセンスのいい物ばかりだ。

 どこに座ったらいいのか、わからなかった。あの人がいつも座っている場所は嫌だったのだ。

「そんなところに立ってないで、どこでも好きなところに座って」
 彼女はリビングの窓のカーテンを開けた。遠くに山々が見える。
「あれって、もしかして富士山?」
「そうよ。今日は天気がいいから、よく見えるの」
「へぇ~」
 と僕はわざと興味のない返事をした。

「こんなに綺麗に見れるのって久しぶり」
「そう・・・・・・」
 窓から見える景色をぼんやりと眺めた。
「あなたは晴れ男だものね」
 彼女も、記憶の中のガラクタをあさったのもかもしれない。
「ああ、相変わらず、天気の運だけはあるよ。金運も恋愛運もさっぱりだけど」
「いいじゃない。天気がいいって最高じゃない。あなたとのデートはいつも晴れていた思い出ばかり・・・・・・」
「今は違うのか?」
「あの人、雨男だから、いつも雨ばっかり」
 と彼女は声に出して笑った。こんなことで勝ってもなんの意味もなかったが、それ以外に勝てる要素を、今のところ見つけることができなかった。

「ピザ屋さんのデリバリーのバイトはまだやってるの?」
 嫌な話だった。
「芝居もまだやってるよ。すこしずつだけど劇団の動員数も増えているんだ」
「そう、よかったじゃない」

 今度は彼女が心にない返事をする番だった。
 あの人に対抗意識を持っているわけではない。だがこれ以上、自分の話をするのが嫌だった。目的をとげたら、とっとと帰ろうと考えていた。

 彼女はワインセラーから赤ワインを取り出した。

「ワイン飲めるでしょ」
「ああ、飲むよ」
 実際には飲んだことなどなかった。いつもチューハイか発泡酒しか飲まない。
 彼女はワインのコルクを器用に開けると、透明な花瓶に似たガラスの容器にワインを注いだ。
「わざわざそんな物に入れなくてもいいよ」
「ああ、これデキャンタージュって言ってね。ワインを開いてるの」と彼女は教えてくれた。

 ワインを開く、それが一体なんのことか、僕には分からなかった。既にワインのボトルは開いているのに、わざわざ別の容器に移し変える必要はないように思えた。だが、匂いに敏感な僕は、ワインが空気にさらされてほのかな香りを放つのがわかった。どうやらこれが、開く、ということらしい。それとは逆に僕の心は少しずつ閉じていくのを感じた。

「トイレ、かりていいかな」
「どうぞ、廊下を出て左の扉よ」

 僕は廊下に出た。
 このまますぐに帰った方がいいのかもしれない。部屋も見たし、彼女も元気なのもわかった。それでもうよいではないか。もうこれ以上、誰も傷つけたくなかったし、傷つきたくなかった。

 トイレの扉を開けた。だが、そこはトイレではなかった。あの人専用のクローゼットようだ。ブランドものとおぼしき光沢のいい生地のスーツが並んでいた。あの人の香水だろうか、吸い寄せられるようないい香りがした。その香りを嗅いでいたら、ふつふつと闘争心のようなものがわき起こってくるのを感じた。

 クローゼットから出ると、改めてトイレに入った。緊張しているのか、股間のものは縮んでいた。深呼吸した。彼女は何も知らない人じゃない、四年間もつきあった女ではないかと思い直した。だが、一向に緊張はとけてこなかった。おしっこを絞り出すと、小さな水音がした。チャックを引き上げ、ズボンの後ろポケットの財布を取り出して中を調べた。そこにはコンドームが二つ、折り重なって入っていた。

 そのコンドームを取り出してズボンのポケットに移し替えようとした。すると突然、ピンポーン、とチャイムが鳴った。もしかしてあの人が帰ってきたのではないかと慌てたために便器にコンドームを落としてしまった。

「あっ、くそ!」
 すぐに濡れたコンドームを拾いあげて、水をきってポケットに隠すように入れた。

 もし帰ってきたとしても、まだ何もしていないのだ。大丈夫だと、自分に言い聞かせた。昔の友達の振りをすればいい。

 トイレのドアに耳を当てると、彼女の声が聞こえてきた。インターホンでなにやら話している。何かのセールスだろうか、結構です、と言って受話器を置いた様子がわかった。

 ほっと安心すると、自分の心臓が高鳴っているのに気がついた。

 ひとつ深呼吸をすると、トイレを出て彼女がいるリビングに戻った。平静を装って、さっきと同じソファに座った。

 すぐに彼女がグラスにワインを注いでくれた。

「さぁ乾杯しましょう」
 彼女はそう言ったが、何に乾杯したらいいのか、さっぱりわからなかった。彼女が隣に座ると、ふたりの間には十センチほどしか隙間がなかった。

 一気にグラスのワインを飲み干す。今までに経験したことのない味だ。堅くてかび臭い、せつない味だった。

 彼女は立ち上がると、冷蔵庫からチーズを出して持ってきてくれた。柔らかく壊れそうなチーズには、ところどころ緑色のぶつぶつがあった。手にとって匂いをかぐと、女性のあそこの匂いを思い出させた。

「あ、それブルーチーズっていうのよ。匂いもきつくて、味も独特だけど、ワインにはすごくあうの」

 二杯目を彼女が注いでくれたので、ブルーチーズと一緒に飲んだ。口の中で一杯目とは違う複雑な深みのある味が広がった。

「ね、合うでしょ」

 すぐに三杯目を彼女が注いでくれる。それがスタートの合図だったかのように、彼女が抱きついて唇を重ねてきた。彼女の体温が伝わる。彼女のにおいを感じて、ほっとする。あの頃と何も変わっていなかった。唇の柔らかさ、胸のふくらみ、感じると発せられる吐息も、何もかも同じだった。緊張が一気に解けて、興奮に変わるのがわかった。股間が堅くなって張り裂けそうだ。すると彼女が僕のベルトをゆるめて解放してくれる。

 もう僕と彼女しかいない。誰もそこに入ることはできないのだ。どこをどうすればよかったかを必死になって思いだそうとした。

 だが、それは突然、中断された。
 僕の指に反応した彼女がのけぞって、テーブルの上のワイングラスを倒してしまったのだ。赤い液体はテーブルからこぼれ、まっ白い絨毯にシミを作った。

「大丈夫、ほっといて」
 彼女は、僕の股間に顔をうずめながら言った。
「あ、でも」
「いいから!」

 白い絨毯にこぼれた赤い液体が、彼女を初めて抱いた大学時代を思い出させた。あれは高円寺のアパートだった。ふたりとも初めてだった。僕はぎこちなく強引だった。彼女は体中をヒモで堅く縛っているように緊張していた。ことをなんとかやり遂げたあと、彼女は泣いていた。心配になって訊ねると、大丈夫、すこし痛かっただけ、と彼女は言った。それよりもあのときの彼女は、シーツを汚してしまったことをずっと気にしていた。でも、今は違った。

「大丈夫じゃないよ」
 僕は彼女から離れると、転がっているワイングラスを持ち上げた。台所にあったタオルを水に濡らすと、白い絨毯をこすった。だが、ワインの赤いシミは広がる一方だった。

「なにか、洗剤みたいなものはないの?」
 僕は彼女に訊いた。
「いいから、絨毯なんかほっといて」
「いや、だめだ。これ高いんだろ」
「また買えばいいの、そんなこと、あの人は気にしないの」
「俺が気になるんだ!」

 自分でも、どうしてそんなに他人の家のジュータンの汚れが気になるのかわからなかった。
 どんなにこすっても絨毯は元には戻ってくれない。それでもこすり続けた。だが赤いシミは淡く汚れを広げるだけだった。

「もういいから」
 彼女は止めようとしたが、それを僕は無視した。
「やめて!もう帰って!」
 彼女が大声を上げたので、手を止めて振り返った。彼女の眼から涙があふれていた。
「もうダメだな、この絨毯・・・・・・もう元には戻らないや」

 立ち上がると、キッチンに汚れたタオルをゆっくりと置いた。僕は小さな目的も果たせずに逃げ帰ることになった。

 黙ったまま、玄関に向かった。大理石の床にはそぐわない、汚くよごれたコンバースのシューズが横たわっていた。僕の物だった。耳をすますと、リビングで泣いている彼女の声が聞こえてきた。しばらくその音を聞いていたが、意を決して廊下に出た。

 廊下には誰もいない。背後でパタンと小さく扉が閉まる音がした。大きくため息をひとつ吐くと、廊下をとぼとぼと歩いた。エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。

 表示された数字が三十六からどんどん下がっていく。それはまるでタイムマシーンに乗って過去に戻るように思えた。

 一階について扉が開くと、背の高い若い男が立っていた。男は仕立てのいい派手なスーツを着て、足元には重く光っている革靴をはいていた。男は僕が持っていないものをすべて持っていそうだった。

「こんにちは」
 男が挨拶する。どうやら僕をここの住人だと思っているようだ。
「ああ、どうも・・・・・・こんにちは」
 なるべく平静を装って、エレベーターを降りた。すれ違う瞬間、男の体から彼女の部屋のクローゼットと同じ香りがした。

 外に出ると雨が降っていた。
「くそ、雨男め」
「あの、すみません」
 背後から声をかけられた。振り返ると先ほどの若い男が立っていた。

「もし、これよかったら使ってください」
 男は、ビニール傘をこちらに差し出していた。
「どうせ、捨ててしまいますから、よかったら、どうぞ」
 僕は一度はビニール傘を受け取ったが、何か納得しないものを感じて、男に返した。

「いや、大丈夫です。簡単に捨てるなんて、やめてください。末永く、お願いします」
 僕がそう言うと、男は何のことを言っているのかと首を傾けて、マンションへ引き返していった。

 外に出ると、空に向かって、手をかざした。雨は勢いを増していた。ふとその手を見ると、彼女がこぼしたワインで赤紫色に汚れていた。仕方なく、僕は雨で手を洗った。すると、ワインの汚れはゆっくりと消えてなくなっていった。
 
 

   

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