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胸の内を話すことについて。

32歳にもなると、仕事以外での出会いがほとんどなくなってくるのだが、最近の自分はというと、あたらしい人に出会うことが増えている。それも仕事とは関係のないプライベートな人にだ。

そんなこともあって、普段質問されなくなった自分の生い立ちや過去のことについて話すことが増えている。

例えば、子どもの頃の話や、学校の話し、入っていた部活や、これまでの恋愛事情、上京のきっかけや、今の仕事についた流れなど、それ以外にも好きなものや嫌いなもの、趣味や、交友関係、親や兄弟についてなど本当にさまざまな角度で質問が飛んでくる。

そこで思ったことがふたつある。ひとつは自分のことをどこまで話すかによって、相手が話してくれる深さが変わるということ。もうひとつは、過去の自分への解釈が深まるということだ。

書きながら、あたりまえのことだなと思うが、自分が話すことによって、相手が話してくれるようになったという経験や、自分のことを深く話す機会というのは、みんなも意外とないのではないだろうか。こと自分でいえば、大学の友人しか知らないような話や、その友人たちでさえ知らない自分の解釈が加えられた過去のその話は、自分にとっても新鮮に感じる部分がある。

例えば、どんな小学生だったのかという質問があったとする。自分がやっていた習い事や、よく遊ぶ友人については親でも知っているけれど、その中で自分が何を考えていたのかについては親も知らないし、「クラスで1番のマイノリティになる」ことを頑張っていた自分の胸の内は親友だって知らない。

これは「目立つ=モテ」だと思っていたからでもあるが、もっといえば「特徴がない」自分を認めたくないネガティブへの反抗だったと思うし、単純に「かまって欲しい」という寂しさが心にあったからではないかと思うが、この状態を外から見れば「元気で活発な子ども」というポジティブなものになってしまう。

自分がマイノリティを目指し、とにかく目立ちたかった幼少期と、転校によるいじめがきっかけで、目立つのが嫌になり、人と同じものを欲しがるようになった自分がいることについては、外から見る情報と、ただ事柄を説明するだけでは伝えることができない本当の自分の情報になる。

もちろん、話さずともそういう部分があることを読み取ってくれる感受性の高い友人はいるし、そのレベルで気にしてくれた大人達もいたにはいたが、どう思い、どういう人だと感じていたのか?など、その答え合わせをするという場はないことが多いと思う。自分もその答え合わせは実際してきていない。

つまり、何が言いたいのかというと、相手のことを知りたいと思うとき、相手の話を聞くだけではなく、自分のことを知ってもらうということも重要になるということがいいたい。

「私は」「自分は」相手のことを詳しく知っているという相手への理解が、相手との距離を縮め、それが親しさになっていくのではと、そう思うのだ。