おれはなる。
この5文字を見ると、ポケモンマスターのサトシくんを思い出す。
「なりたい」ではなく「なる」。なんと力強いことか。
ちなみに、ワンピースのルフィも「海賊王に、おれはなる」。といっている。この5文字は、夢を実現するためのパワーフレーズといって間違いないだろう。
では、僕は一体何になるのだろうか。
これまで、僕はいろんなものになりたいと思った。
幼少期の僕はプラモデルが好きだった。器用に組み立てることを褒められると、将来はメカニックになるんだといったし、足が早いことを褒められたらサッカー選手になるといっていた。
父が職人だったこともあり、家の一角は作業場になっていた。中学生に上がる前までは、父の横で絵を書いていると褒められた。褒められたかった僕はよく絵を描いていた。昔の記憶ではわりと描けた方だった思うが、今は驚くほど描けないからびっくりである。
その後も、消防士、書道家、お笑い芸人、料理人、映画監督、広告、アパレル、インテリア、デザイナーなどいろんなものに憧れた。僕はとにかく影響されやすい人間だった。
芸大に進学してからの僕は、これから起こるキャンパスライフにワクワクしながら、同時にコンプレックスも大きくなっていった。
そう、僕には取り柄と言えるものや、これは負けないといった必殺技がなかったのだ。
自分の入った学部がそれを物語っている。
僕が通った芸大には14学科あり、何かしら一芸に秀でるための訓練(授業)を受けるのだが、僕はその中で一番抽象的な「芸術を計画する」という学科を専攻していた。
何をするのか?と聞かれると「何かを企画するのだ」と答えるしかない、その学科では、絵を描いたり、カメラで何かを撮ってみたり、空間というか壁に違和感をつくってみたりと、浅く広くという言葉がしっくりき過ぎるそんな感じのことを繰り返し、最終的に何かを企てる、企画人や仕掛け人と呼ばれるタイプの人間を育てる学科だった。
表現の幅が制限されていないという点では良かったが、何か一つのことを掘り下げるというのには不向きだったし、自分の創作の拠り所となるものがないというのが僕を悩ませた。
絵は描けないし。デザインもできない。プロダクトなんてもっとつくれないし、世界を写真で切り取るスキルも、それらを繋げて映画にすることも、脚本を書いたり、舞踊や演奏学科のように歌うことも踊るといった表現も僕にはできなかった。
今思えば、企画屋なので、僕は「ソリューション思考」でいればみんなと違った価値を発揮できたはずだが、当時の僕のマインドは「芸術は爆発だ!」だったし、学部を覆う空気も「アート思考」だったから自分の立ち位置を掴めないでいた。
その結果、ハウだけが先行した謎のインスターレーションや、「ナニコレ」という感情になることがすごいんだと、自分で説明しながら何を言っているのかわからないことを沢山した。
黒歴史にも種類があるが、どこを向いているのか分からないでいたこの時というのは、僕の中でかなり恥ずかしく、消したい過去であり、やり直したい過去だ。
話が少しそれてしまったが、この”軸なしのブレブレな状態”が僕を悩ませていたし、それが何よりも恥ずかしかった。
でも僕は、今日感動したら、明日は違うことに感動していたし、何かをはじめようと思ったら、次の何かにすぐに影響を受けるような、多感なやつだった。
大学の先輩が、感動しないことを感動インポなんていっていたが、そこでいうと僕は感動の絶倫野郎ということになるのだろう。
百歩譲って影響を受けることは良いとしても、具体的な行動に移すことができなかったのが何よりも痛かった。
そう、僕は「消費者」であって「生産者」ではなかったのだ。
だから、仕方なく「企画展」や「◯◯祭」といった場の仕切りを行う立ち回りに徹するようになっていった。
それ自体が嫌いではなかったが、自分の中では明確に逃げの行為だった。
つくれないことも、やりたいことがないこともバレたくなかった。
これがずっと自分のコンプレックスだった。
それから十年の月日が経ち、僕は今ようやく創り手に回ろうとしている。
まだ、成功したといえるものはないが、創りたいものがイメージとして出てきている。
「◯◯に、おれはなる」の冒頭に入る適切な言葉はまだないが、入る言葉が見つかったときには、このコンプレックスとおさらばしているであろう。