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回想録 六 教師としての生活 その3


回想録 六 教師としての生活 その2からの続き

5、坂の上小学校

研究校と小諸地区では言われていたが、年配の先生が多く、若い者は少なく、研修はほとんどなかった。それで上田先生の本を読む会をやろうとしたが、続かなかった。
夏休みに読書会を計画して、裏の園城寺(佐久市内山)は涼しいのでそこを貸してもらってやったが、昼の時に寺のおばさんがビールを持ってきてくれそれを飲んだら、研究会は終わった。父母とは宴会をして皆仲良くなった。
四年生から六年生まで三年居た。
子どもの卒業記念に玄関の屋根の上に校章を飾った。諏訪の駅前に原田工具店があり、弟が絵描きだと言っていた。後でわかったが、原田泰治さんだった。
六年生を終えたので次の学校へ転任になった。
原田先生とは高校、大学が同じで8月2日に高校が同じで教職にある者が年一回飲み会をしていた。最初は15人いたが、3人だけの出席者になり、会は終わった。

6、立科小学校

立科町にあった3つの小学校を統合して新しい校舎を造り、一年目の年だった。上田と内山の中間くらいの距離だったので、半々くらいに帰った。(母が内山で一人暮らしをしていたので)
六年生を持ち、次の年は一年生で、どの学年も3つクラスがあった。
玄関がハイカラでホテルのようだった。
食堂があり、2年生からそこで昼食を食べた。
統合一年目だったので、職員も各校3割ぐらいが残っていた。校長も残っていた。
校長室の前の中庭で「うさぎ」を飼った。
校歌を作ろうとなって、町長さんの息子の嫁の上原先生が知っていて、山川啓介さんに頼んだ。以前父親が立科中にいたこともあって引き受けてくれた。(北風小僧の寒たろうや岩崎宏美のヒット曲の作詞家だ)。30万円ぐらいで、発表会には知っている楽団と作曲家も連れてきて行った。その金は山川さんが支払ったようだ。試作の時、町の職員に見せたら「ここから世界に羽ばたく」というのは町から皆外に行ってしまうので困る。と申し込まれ、その所を直してくれた。
※大岡小の時も校歌を勝承夫と平井康三郎で作った。村へ来て、ジープで見まわったり、村の人や学校職員に聞いたりして作った。村は相当金がかかったようだ。

後で近くの学校へ行って、校歌の額を見た三つくらいの学校も同じ作詞作曲で、山や川、松や杉が異なっているだけの作詞だった。

立科小は昔からの伝統が無いに等しいから、何でも先生たちの発想でできた。
校長が東京の学芸大の出身だったので、長野県の学校と違って、観念論を嫌っていて、何か発言するにも、具体的な事実に基づく内容で無いと認めない。年寄りの先生には厳しかったようだ。若い先生たちの言うことを良く聞いてくれていた。校長室に呼ばれて話もした。「面白いやつだ」と思われていたようだ。
そんな中で研修の話が出て、校長が良く知っている上田先生を読んで公開授業をしたらと提案したらしい。
それで職員会に校長が提案することになった。
二人ばかり若い先生で反対しそうなのが居たので、それぞれお茶を飲みながら自分の考えを言っておいた。
後で校長に知れて、他校へ行った時に、その話をしたようだ。

保健室や事務室が火事なった。最初はベッドだけ焼けて自然に消えていたので、消防や警察には言わなかったが、次の時は町の人が通りかかりに見つけて消してくれた。
警察が来て調べた。
六年生からひとりひとり面接して行って態度ですぐに分かったようだ。
上原先生の担任の子で、東京で借金取りから逃れて立科に来た子だった。


校長が転任の時、県の教育委員は「高瀬小ではどうか」と町教委に聞いたら、町から信頼されていたので、それはダメと言い、それなりの学校へということになり浅間中になった。

立科や望月の方を佐久のチベットと呼んでいたが、その後研究校として、優秀な人が進んで来るようになった。車の普及もあったが。

新しく来た校長は何でも言う気風の学校に合わず、ノイローゼで休んだ。
病院からは「学校の話は禁止」と言われた。後任に教頭が校長になった。

4年目に転勤の話があって、北小の時の田中先生と飲む機会があって、上田へ帰りたいというと「校長を辞めるかもしれないが俺がとる」と言ってくれた。
立科の校長からは佐久に残るようにと何回も言われたが、家の事も考えて上田にした。その頃は上小の学校へ来たい人が多く転勤が難しかったので皆が驚いていた。
立科は若い人たちも懐かしい学校だったようで、数年後「立科会」を開き集まって飲んだり一晩泊ったりした。校長が亡くなり終わりになった。
家からは遠い立科だったが、懐かしい学校になった。

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