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コミュ力はだれが決める?

コミュニケーションって大事ですよね、ってよく耳にするけど実際難しいなと思いませんか。

この項目にすべてチェックができる人はコミュ力があります!というわけでもないし、コミュニケーション能力検定2級以上は履歴書に書けます!というものでもないけれど、就活なんかでは「コミュ力」「コミュ力」「コミュ力」攻撃です。

人と関わるのが好きな人というのも難しくて、私の場合一対一だと相手の話をちゃんと聞けて自分の話もちゃんとできますが、大人数になってしまうと場を仕切ってまで話せることもないし狭く深く話し合いたいタイプなので聞く側に徹します。そんな時、おもしろおかしく場を盛り上げてくれる人というものはありがたいです。

そこで考えるべきコミュ力ですが、この場合場を盛り上げてくれる人が俗にいうコミュ力が高い人です。

ただ私は少し物申したいのです。こちら側、そうです、オーディエンスとなって話を聞く人たちがいるからこそ場はうまく盛り上がっているわけで、誰かひとりが凄いから良いという話ではなく、その場にいる人間が作り出すものがコミュニケーションだと思うので一概にコミュ力があるとは言い切れないのではと思うわけです。明るい暗いも関係ない、口数の少ないあの子は慎重なだけかもしれない、おしゃべりなあの子はさみしがりやかもしれない、その人の個性であってそれが一軍だ二軍だと分けられスクールカーストのようなものができてしまうと、せっかくコミュ力があっても暗黙の了解でコミュニティができてしまう。それすらを凌駕するぞ自分はという方、コミュ力高いです。素晴らしい。

話を戻して少し誰かを例に挙げてみます。

私の知人にとても気さくで明るくて人懐っこい人がいます。実際彼は自他共に認めるコミュ力人間です。彼はよく「会話のキャッチボールがうまくできない人は苦手だ」と言っていますが、彼が上手いのか下手なのかどうやって誰が見極めるのだ、と。

彼の投げるコミュニケーションボールは剛速球でキャッチできる人は限られた人かもしれない。確かに速くて鋭い球ってすごいですよね、野球界でもチヤホヤされます。そしてその限られた人たちは確かに速く鋭い球を沢山投げられるので、おぉ!となるかもしれませんが、みんながみんなそうではありませんよね。逆にゆっくりだしバウンドもする球かもしれないけれどその球の方が助かる時もあると思うんです。

だから一概にコミュ力、コミュ力と言っても相手がいてこそのコミュニケーションなので誰がある、ない、で完結できるほど人間関係は簡単ではない。時と場合の投げ分けができる人、これはコミュ力が高いです。

でもそんなに高い必要があるのか、それで劣等感を抱く人が増えていいものなのか、いろんな人がいるからこそ自分がある、くらいの気持ちでいたいな、と。


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